【証言・北方領土】水晶島と国後島・元島民 佐藤健夫さん(3)
―10月に根室に渡った。空襲で街は焼けていたのでは? あのね、幾らか残ってたっていうだけで、ほんとにね、中心っちゅうかね、役場とか、あれはどこを主に狙った、船を狙ったのかね、海岸線かね。 だけど、その港に何軒か残ってたんだよ、旅館が。あれ運がよかったっていうかね。だけど、父親たちも、水晶に出た3人も、旅館に集合できてね、ばあさんは1人、結局残ったんですよね。だけど、親子10人は揃って、毎日、旅館にいるわけにもいかないし、どうしたらいいかっていうことで探したんですよ、うちをね。だけど、なかなか根室市内には、もうね、ないんですよ。 それで、納沙布の途中に珸瑤瑁にあんですよ、途中にね。それ漁村なんだけど、歯舞、珸瑤瑁、納沙布って、こうなってんですよ、4キロぐらい離れてんだよ。4キロずつね。歯舞から根室までは何ぼだろ、15キロぐらいかね。それで、その珸瑤瑁に1年住んだということがあるね、納屋にね。そこには…。
食糧難で昼食抜き
一番やっぱり苦しかったのは食べ物がない状況ですよ。米はね、不足してたかね、戦争でね。だから、米の配給っての、ほんとわずかだから、それをどういって、それで食べるかっていうことで、昆布だけとれたから、昆布炊いて、そこにご飯をちょっと混ぜて、おかゆだね、そして食べたんですよ。だから、絶えず、何か腹減っているっていう記憶はありましたね。 だから、学校行っても弁当持ってけないから昼は抜きですよ。だから、子供たち、ほかの人は食べてるから、自分は体育館みたいとこ行って、その時間を潰すと、こういうようなことでね、やっぱりそれがつらかったすね。 1年経って、父親と姉が復職するっていう、この中標津からちょっと、10キロぐらい離れたとこにマタウチっていうとこあんですけどね、そこの学校の先生になるっていうことで、そこに行ったんですけど、そこでも、やっぱり食べ物は苦労しましたね。ただ、あのころ、カボチャはよくとれたんですよ。それで、カボチャを自分たちでつくって、毎日カボチャですよ。カボチャはよく食べました。 それから、あのころね、でんぷん工場ってのは、結構そちこちにあったんですよ。だから、でんぷん、でんぷん食べりゃいいんですけど、お金もかかるから、でんぷんかすっていうのあんだよね。それでだんご作ったり、カボチャと、よく食べましたね。 ―そのころから、この中標津近辺が佐藤さんの活動圏に? ええ。一番下の姉は(根室の)女学校時代だから、女学校はね、燃えなかったと思うよ、ずっと高台のほうにあったから。それで、そこの寄宿舎に入ったんだね。