銀座『黒革の手帖』のリアル 第3話 半狂乱のバブル期、この街で生き延びて
バブルのころの銀座は、やはりいまとは様子が違っていたと振り返る。 「ぜんぜん変わりましたね、いまはしなびちゃってる。並木通りの辺りなんかは、ここは銀座だってぐらいきらびやかでした。道の両脇にリムジンだなんだ、外車がずらっと並んでるんですから。黒服のポーターさんがいて、自分とこのお客さまが車でくると、降りたら鍵を黒服に渡すの。飲んでいる間、きちんとお預かりしてね。そのときかならず1万円札を渡すんです。そういう人が1日10人いたら、それで10万ですよ。月にいくら? 考えられない世界ですよ」 バブルがはじけ、リーマンショック、3.11を経て、銀座もすっかり変わったという。 「もう景気がいいことなんてない、だから銀座が廃れているんです。古い人たちとお話すると、『もう本当につらいよね、商売』、っていうのが現実ですよ。うちなんかでもなんとかやらせていただいているっていうのが現実です」
毎日、銀座通いの常連客も 日本中が浮足立っていたバブル
バブルのころは、日本中が浮かれていた。銀座の夜もまた、浮かれていた。 「ある先生はね、食事に行こうと並木通りを歩いていて、私が、いい感じの着物があるなとちょっとウインドウに目がいったりすると、『お、どうした? あれ気に入ったの?』って。私はそんなつもりもないし、いえ、ちょっと感じがいいと思っただけですよ、って申し上げるんですけど、くるっとお店に入って行くのよ。それで、『そこのウインドウのね、帯と着物を見せてくれる?』って。先生、やめてやめてやめて、って。だって、100万とか150万なんですよ。とんでもないから。『いや、男が一回言ったんだから。ママが気に入ったんだから買おうよ』って。皆さんそういう調子でね」 伊藤園の「おーいお茶」、ハナマルキの「お母さん~…」など、あまりにも有名なテレビ広告を作った村国豊氏も、常連客だったとか。店には、村国氏から寄贈された絵がいまも飾られていた。 「村国先生も月曜から金曜までみえるんです。そういう毎日組のお客さんが結構いました。一人できても月末締めの月末払いだから、『先生、月末きたからよろしく』っていうと、細かい金額は聞かずに『はいよ』って、帯封を一本(100万円)持ってくるんです」 高価なプレゼントは当たり前。しかしそこにも、佐藤さんなりの流儀があった。 「私のお誕生日が9月で、誕生石がサファイアなものですから、天賞堂(宝飾、時計、模型等を扱う銀座に本店を置く名店)さんで保証付きのダイヤが付いたサファイアの指輪をくださったお客さまもいました。困っちゃうのね。だから私はお返しをするために後で天賞堂さんに、『これおいくらぐらいのものなんでしょうか』って聞くのよ。やっぱり高価なものをもらっていただきっぱなしっていうのは嫌だったので」