<平安時代のファッショントレンド>男子は「威風堂々」では女子は…。大陸文化を消化して日本的な「国風文化」「武家風」が成熟していくまで
◆男女とも正装が簡略化される まず男性が朝廷に出仕するときに着用する朝服が大きく寛容になり、形を整えて束帯(そくたい/天皇以下の公家男子の正装)として成立し、承平(じょうへい)6(936)年の『九条殿記』ごろから登場したとされる。 束帯には縫腋の袍(ほうえきのほう/脇の縫ってある有襴(うらん)の袍)の文官用束帯と闕腋袍(けってきのほう/脇を縫い合わせていない袍)の武官用束帯の2種類があり、文官の束帯の構成は垂纓冠(すいえんのかん)・縫腋袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・重袙(かさねあこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口袴(おおぐちばかま)・襪(しとうず)・靴・石帯(せきたい)・笏(しゃく)である。 これに対して女性の束帯にあたるのが女房装束(唐衣裳装束/からぎぬもしょうぞく)で、宮中の正装にあたる。
◆「武家風」武士の台頭と日宋貿易の莫大な利益 白河天皇は在位14年でわずか8歳の堀河天皇へ譲位後、白河上皇として「院政」を開始する。 これにより「薬子の変(平城太上天皇の変)」を教訓に、嵯峨天皇が823年の譲位後は内裏からも退き、現天皇が至高の権力を持つことを示したことが無意味にされてしまう。 その後も摂政関白制度は存続したが、幼帝が続いて天皇には実権のない状態が続いた。約100年間、政治が混沌とした院政時代が始まる。 前時代からの仏教信仰の普及により権力を持った寺院の僧侶(僧兵)や、軍事貴族として地方へ派遣された桓武平氏や清和源氏などが、任務終了後も土着して地方豪族と結び反乱を起こした。 また貴族・皇族間の利権争いなども続いていく。 永保(えいほ)3(1083)年から寛治(かんじ)元(1087)年の後三年の役(ごさんねんのえき)〈永承(えいしょう)6〔1051〕年から康平(こうへい)5〔1062〕年の前九年の役(ぜんくねんのえき)を受けてこう呼ばれる〉では、この戦いにより源義家の支援を得た藤原(清原)清衡(きよひら)が陸奥(みちのく)での実権を握った。 その子・基衡(もとひら)、孫・秀衡(ひでひら)の三代は、約100年にわたり奥州の支配者となる。 また、白河上皇は嘉保(かほう)2(1095)年に、院御所の北面で院の警衛にあたる北面の武士を設置する。 比較的下位(四~六位)の者を任命し、上皇に直属させて院政を支える武力としたため、結果的に武士の中央進出の契機になったとされる。
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