<平安時代のファッショントレンド>男子は「威風堂々」では女子は…。大陸文化を消化して日本的な「国風文化」「武家風」が成熟していくまで
◆ファッションは奈良時代を引き継ぐ 時代も場所も変わったが、天皇が同じだったこともあり、服装は男女ともに平安時代前期は奈良時代とほぼ同様の唐風(とうふう)文化の色濃いスタイルであった。 その後も弘仁(こうにん)文化の代表的な人物でもある嵯峨(さが)天皇〈桓武天皇の第二皇嗣(こうし)〉に、舶来の文物への志向が強かったことも影響しているのだろう。 嵯峨天皇の弘仁年間(810~24年)は唐風文化の全盛期で、建物の名前・朝会での儀礼・日常の衣服に至るまで唐風化されていったようだ。 奈良時代からすでに礼服(らいふく)・朝服(ちょうふく)などの儀式服や制服は唐制寄りだったが、ついに弘仁9(818)年には「天下の儀式、男女の衣服皆唐法に依(よ)れ」と日常の勤務服も全て唐風にするようにとの令が発せられた。 弘仁11(820)年には、天皇・皇后・皇太子の大礼服・中礼服なども唐制を参考にして定められた。 聖武天皇のときから即位や元旦(朝賀)の儀に着用されていた袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)が、明文化された。 天皇の中礼服は、黄櫨染衣(こうろぜんい)が定められ、現在はこの黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が即位の礼で着用されている。 また、即位後に行なわれる御一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)と悠紀(ゆき)・主基(すき)両殿の儀、および年中恒例の祭祀(さいし)中にて最も重い儀式である新嘗祭(にいなめさい)の時のみ用いられる御斎服(ごさいふく)があり、今上(きんじょう)天皇の即位の際の「悠紀殿供饌(きょうせん)の儀」でも着られている。
◆「国風」日本的なものが次々生まれる200年 寛平6(894)年、遣唐大使に任命された菅原道真は滅亡寸前の唐の混乱を見て、朝廷に遣唐使廃止を建議(けんぎ)した。 道真は危険を冒(お)かしてまで使節を送る必要性がないと判断したのではないかと推測される。 しかし中止は決定されたが、私貿易は続き、中国の文化の所産は「唐物(からもの)」としてもてはやされていた。 10世紀に入ると仮名文字が誕生し、住まいも唐風建築から徐々に日本の気候風土に適した(平安時代は平安温暖期で現代に近いほど暑かったとされる)寝殿造(しんでんづくり)建築に移り変わっていった。 10世紀前半頃まで、貴族達は唐風建築では中国や朝鮮のように靴・椅子・ベッドを使用していたが、10世紀半ば頃からは靴を脱いで上がり、床の上に畳を敷いて座ったり寝たりする現在の日本人と同様の生活様式に変わっていく。 また、朝廷の儀式も大極殿(だいごくでん)や豊楽院(ぶらくいん)で行なわれず、和風建築の紫宸殿(ししんでん)や清涼殿(せいりょうでん)で行なわれるようになり、立礼(りつれい)よりも座礼(ざれい)に変わり、貴族の衣服も全体に大きくゆったりと長くなっていった。 このころから約200年にわたり、平安中後期の大陸文化を消化し、日本的な情緒にかなう優雅で洗練された文化が成熟していく。これを平安初期の「唐風文化」に対し、「国風文化」という。 藤原摂関家の全盛、かな文字の普及による女流文学の発達など、まさに平安時代の中核を担った文化である。
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