両陛下が訪問「パラオ」はどんな場所? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
戦後70年にあたり、天皇皇后両陛下が8日からパラオを訪問しました。太平洋戦争の激戦地ペリリュー島などを訪れ戦没者を慰霊します。両陛下の悲願の1つがかないました。そこで「パラオ」という地と日本との関係について述べていきます。
■200の島々で構成
1994年に独立した共和国です。赤道近くにある約200の島々で構成され、うち10島ほどに人口が集まっています。平均気温は30度をやや下回り、エメラルドグリーンの海に囲まれた珊瑚礁の「南の島」のイメージでヤシやココナッツ畑が広がり、第一次産業とダイビングに訪れる観光客などを主な収入源としています。広さは横浜市よりやや広く、金沢市より若干狭く、ほぼ屋久島と同じ。約2万人が住んでいます。フィリピン南部より東側でニューギニア島より北方。経度は135度で日本と同じなので時差がありません。成田からの直行便で約4時間半で到着します。
アメリカからの信託統治制度下(後述)から脱し、独立してからも防衛権すべてと外交権の一部をアメリカに委ねています。共和制で元首にあたる大統領(任期4年)は国民の直接選挙で選ばれます 第二次世界大戦中の1944年9月から11月まで、パラオ諸島を構成するペリリュー島で日米両軍が激突。最終的に日本兵は1万人以上が戦死し、捕虜も含む生存率は約2%という悲惨な戦場でした。米軍も当初予想した以上の約1800人の戦死者を出し、戦闘も長期化しました。太平洋戦争屈指の激戦地の1つになったのです。その慰霊が大きな理由といえましょう。
■旧委任統治領で親日国
なぜパラオに日本兵がいたかというと、当時この地は日本の委任統治領だったからです。19世紀末に植民地化したスペインは1898年の米西戦争における敗北で太平洋地域の大半で存在感を著しく損じます。一方、1870年の普仏戦争で勝利して誕生したドイツ帝国は、先行して植民地を広げていたイギリス、フランスを追っていました。そこで1899年、スペインはドイツにパラオを売却します。 1914年、ドイツを盟主とする同盟国と、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国の間で第一次世界大戦が勃発しました。日本は1902年に結んだ日英同盟を根拠に連合国側で参戦。パラオを含むドイツ領南洋諸島の根拠地を海軍が次々と陥落させて占領しました。 1919年に連合国と敗戦国ドイツとの間で講和条約として調印されたヴェルサイユ条約で誕生した世界初の平和維持を目標とする国際機構=国際連盟の決定で、旧ドイツ南洋諸島の赤道以北を日本の委任統治領にすると決まりました。これまでの植民地支配と異なり、国際機関が監督するという点に新味があります。 日本は行政機構として南洋庁を設置し、国際連盟の軍事基地設置の禁止といった制約をよく守り、道路や社会資本の充実や教育の普及などに努めました。多くの日本人も移住してきて、軍人を除く住民の4分の3が日本人というにぎやかさとなります。日本語教育も行われましたが、生活レベルまで強制されはせず、また習俗や気候の違いも、むしろ追い風として日本伝統の「殖産興業」路線に乗せられ(サトウキビの普及など)、他の日本が植民地支配した地域より現地人の抵抗は非常に少なく、また国際連盟との定めで「福祉の向上」があったためにむやみな収奪も行いませんでした。そのため1945年の日本の敗戦で退いた後も有数の親日国として現在に至っています。移民が多かったなごりで、今でも住民の4分の1が日系とみられていて、大統領も輩出しています。 日本撤退後、パラオは実効支配したアメリカが1945年に設立された国際連合の信託統治制度下に置きました。連盟の委任統治とよく似た仕組みです。それが94年の独立まで続きました。