両陛下が訪問「パラオ」はどんな場所? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
■太平洋戦争の激戦地
1941年のミッドウェー海戦で大打撃を受けた日本軍の次の主戦場は、ガタルカナル島を含むニューギニア島東部のソロモン諸島の攻防戦でした。激闘の末に撤退した日本は、米軍が次に向かうのはフィリピン方面だと警戒して、通り道にあるパラオのペリリュー島に軍事力を結集する作戦を採りました。自然に存在する洞窟を利用して坑道を掘って地下陣地を強固にし、飛行場も充実させるなど島全体を要塞化して待ちかまえます。 ところが米艦隊は案に相違して北方のマリアナ諸島に襲来、この地域には最重要拠点であるサイパン島があるので日本側もあわてて艦隊を移動させて決戦に及ぶも(1944年6月、マリアナ沖海戦)、記録的惨敗を喫します。真珠湾攻撃で活躍した航空母艦6隻のうちミッドウェーで4隻を失い、貴重な2隻のうち1隻と、戦中に完成した期待の新鋭空母も爆沈し、帝国海軍はほぼ戦力を失い、サイパン島が失陥してアメリカ長距離爆撃機が本土へ直接飛来する事態を招きます。 同年9月には米軍の「殴り込み部隊」として勇名をはせた米第1海兵師団(海兵隊)が上陸作戦に出るも、日本軍側は頑強に抵抗して多くの戦死者を出させ、米陸軍師団に交代させます。すでに制空権も制海権もアメリカに握られ、海軍の艦砲射撃や空軍の爆撃の嵐にさらされながら、使命とされた「持久戦」を完遂すべく日本軍は戦い続けます。その間にフィリピン周辺で行われたレイテ沖海戦で残存していた日本海軍を結集して戦ったものの敗北。ペリリュー島部隊はまったくの孤立無援状態に置かれました。 特に武器や食糧、水などの補給が完全に途絶えた中で悲愴な戦いを強いられました。米陸軍は圧倒的な重火器や機動部隊をつぎ込んで次第に日本を圧倒し、万策尽きた日本軍が最後の突撃をして戦闘は終了。実に2か月半に及ぶ死闘に幕を下ろしました。死者数と生存率は上記に述べた通りです。 この戦いの前に現地人はすべて疎開させられていました。戦闘を完遂するため、または機密情報漏れを防ぐため事前に軍が待避させていたという説や、現地人を巻き込まない工夫であったとの説などさまざまですが、結果的に現地人の死者は出ずに済んだのです。