古典落語の「時そば」は、上方だと「時うどん」…著名なネタでわかる、江戸と大坂「落語文化の違い」
落語文化の違いがきっちり出る演目
「時そば」というのは落語のなかでも知られた演目である。 寿限無、まんじゅうこわいと並ぶ著名なネタだ。 【一覧】テレビ局「本当は使いたくないタレント」…ワースト1位は意外な大御所…! 「二八の十六文」であるそばを、一文ごまかして、十五文で食べようとする噺である。 秋から冬にかけての寒い時期がもっともはまるネタであるが、あまり時期を選ばない。かつて志ん生が言ったようにこれは「銭をごまかす話」である。寒い時期のそば、というところをさほど気にする必要はない。 「時そば」はそば屋での話で、これは江戸方である。 上方、つまり大阪方では、「時うどん」と呼ばれて、舞台はうどん屋になる。 「一文ごまかす」部分は同じであるが、それ以外のところがずいぶんと違う。 まさに江戸と大坂の落語文化の違いが、きちんと出る一席である。 大きな違いは、上方のほうが、最初、二人で行くところにある。 二人のうち、一人は目端の利く男で清八(ふつう清やんと呼ばれる)、もう一人は「世の中をついでに生きているようなぼんやりした男」で喜六となっている(上方落語に与太郎なるものは存在しない)。 二人で銭を出し合って、一杯のうどんを分けて食って、目端の利く清八がまんまと一文ごまかす。それに感心した喜六が翌日同じように真似しようとして、かえって損してしまう、という話になる。 これが上方の型。
言葉にしにくい「落語の妙味」
江戸方の「時そば」では、まんまと一文騙す男と、それを真似てしくじる男に面識がない。たまたまそば屋の脇で一部始終を見ていた男が、翌日その真似をしてしくじる、という展開になる。 上方にくらべていくつか無理がある。 まず、見知らぬ男がそばを頼んで食べて金を払うまでを、その近くで(そばを食うわけでもなく)ただ見ていた、というところがかなり不思議である。 しかも、この傍観男、そば屋が一文かすめられた巧妙な手口を、自力でトリックに気づくのだが、そもそも彼は「ぼんやりした男」のはずなのだ。 そこにも無理がある。 真似てしくじる、というパターンを楽しんでもらうために、この部分はやや大束に仕上げている、という印象がある。 両方の型をよく知っているほうからすると、江戸のほうの、間抜け男がトリックに気づく部分が少し苦しい。 間抜けさを前に出すと、トリックに気づくまでに時間をかけてやや怠くなる。かといって、すっと気づくとテンポはいいのだが、間抜けさが出てこずに、後半との一貫性が失われる。 ただ東京方の落語を聞き慣れて、身体の一部と化すほど染みこんでくると、たしかにいくつか無理はあるにしても、でもこっちはこれでいい、という気分になる。 上方のほうが合理的だとしても、そんな演出に無理に変えなくていいだろうとおもってしまう。 このへんの心持ちは、なかなか言葉にしにくい。 つまり、ここが落語の妙味だと言えるだろう。 理屈じゃわかるけどね、そうじゃないんだよね、と、言いたくなる。