古典落語の「時そば」は、上方だと「時うどん」…著名なネタでわかる、江戸と大坂「落語文化の違い」
決定的に違う「流れる気配」
一人なのだが、前日とまったく同じようにやったるねん、と二人の会話を一人で演じることになる。 一人で食べながら「引っ張りなっちゅうのに、うどん屋のおっさん、笑うてるがな」とやるので、うどん屋は「笑てしません笑てしません、どっちか言うと怖がってますのや」という返しになる。 それを無視して一人で「そんなに食いたけりゃ食え、食わいでかー、あーあーあー、これが半分か、うどんが二筋ほど浮いてるだけやないか!」と二人セリフを一気に言って、うどん屋に「あんたが食うたんやがな!」とツッコまれることになる。 この、一人で二人分のセリフを棒読みのように言う、というのはメタ落語のような構成で、落語の方式をぎりぎりまで伸ばして笑いを取りにいくのが大阪らしいところである。 そして最後、銭を払うところ、八つまで数えて、「いま、なんどき」と聞いたら「五つ」と戻ってしまうので、三文損しよった、で終わる。 江戸方のほうは、こういう仕組まれた笑いになっていない。 最初の、うまく騙しきる「見知らぬ男」は口が達者で、べらべら一人で調子よく喋るのだが、ここに細かいギャグが仕組まれているわけではない。 翌日に間抜け男がその口調を真似て喋るが、ことごとく前日のそば屋の逆、というところでおかしみが出る。そこはほとんど一人喋りである。 一人喋りでずっと持っていくのが、江戸らしい語りである。 上方のほうは、二人でわいわいが基本なので、一文かすめる「悪戯」という気配が強い。 江戸方のほうは、どちらも一人なので、上方よりずいぶん「孤独さ」が浮き彫りになってくる。基本に流れる気配が決定的に違う。 大阪のほうが構成として「くすぐり」を多く用意してあり、東京の基本型はそこまでこまめに笑いを取りにいかない。演者の工夫で笑いを足せるのが東京のほうである。 「時そば」は素でやるとかなりすっきりした噺になる。 とはいえ、東京でも上方の型で演じる演者もいる。
土地に強く縛られた話芸
春風亭昇太がそうだし、私が聞いたなかでは、林家ひろ木、林家たこ蔵、柳家喜三郎、鈴々舎風柳らも二人で「そば」を食いにいく上方の型で演じていた。 落語に何を求めているのか、という意識の差によるものだろう。 大阪の地で聞くには、やはり「わいわいがやがや」の気配の入る「時うどん」がいいし、江戸の空っ風のもとでは、一人で立ち向かう孤独の「時そば」を聞くのがしっくりする。 やはり落語は土地に強く縛られた話芸なのだなと、あらためておもう。 【さらに読む】『「売れている芸人」と「うまいのに売れてない芸人」は何が違うのか…何十年も落語に通って「たどりついた結論」』
堀井 憲一郎(コラムニスト)