古典落語の「時そば」は、上方だと「時うどん」…著名なネタでわかる、江戸と大坂「落語文化の違い」
「保ちたい幻想」と「笑えるポイント」
慣れているものがいいというだけの感覚だが、それは落語の成り立ちそのものともつながっていそうな部分で、あまり譲れるところではない。 たぶん、そういう感覚の聞き手や演者が多いとおもわれる。 理屈じゃあ、ない。 うどんじゃなくてそば(蕎麦)だろ、というのも、保ちたい幻想のひとつである。 江戸ッ子はうどんもたくさん食べてた、なんて歴史的な何かを聞かされたところで、聞く耳は持たない。持ちたくない。 ただ、笑えるポイントは、上方の「時うどん」のほうが笑えるポイントが多い。 上方の「時うどん」の特徴を少し細かく挙げてみる。 まず、最初は二人で歩いている(遊郭の冷やかし帰りという演出でも聞いたことがある)。 うどんを食おうという話になるが、二人とも持ち合わせが少ない。まぬけ男喜六のほうが持っているのが八文、はしこい男清八の持っているのが七文、合計十五文しかない。 「むかしからうどんは一杯十六文や、一文たらん」と喜六は心配するが、まかせとけと清八がうどん屋でうどんを頼む(しっぽくか花巻、というメニューの選択は上方にはない)。 最初から十五文しか持っていない、というのもポイントである。 上方は、最初からいろいろ「くすぐり」を入れてくる。
上方でしか出て来ないギャグ
うどん屋が、うどんを茹でながら、客寄せの呼び声「うどん、えー、そーばやー」と大声を出すと男が「じゃかましわい」というテキストで私は強く覚えているのだが(1973年ごろの桂きん枝〈現在の小文枝〉が演じたもの)、ここも声の出しようでは受ける。 二人で一杯を分けるので、主犯の清八が先に食べて、従犯の喜六が後ろで待たされて袖を引っ張る。そこは清八視点だけで描かれる。 「おい、引っ張るなちゅうねん、残しといたるがな、見てみいな、うどん屋のおっさん、お前みて笑うてるがな、」というセリフで欲しがる喜八の姿が浮かんでくる。 さらに何度も袖を引かれるので、「そんなに食いたいのか、食いたけりゃ食え!」「食わいでかー、おれも八文だしてんにゃぞ、…………あああ、あああ、あああ!」「なんやねん」 「この、このうどんが、八文か! うどんが二筋ほど浮いてるだけやないかっ!」「うるさいな、黙って食え」とやりとりが賑やかである。 食べ終わり、銭を出して、そこで一文ごまかして、出ていくことになる。 清八が先に出て、喜六が追いかける。 「清やん、清やん、ちょっと待ってえな……おまえは、悪い男やなあ」 「わかったんか」 「わかったかって、おまえ十五文しかないて言うて、悪い男やなあ、ほんまは十六文、持ってたんやないか!」 このセリフは受ける。二人組での上方でしか出て来ないギャグである。 呆れて、清八がトリックを説明するが、一回目では喜六はわからない。 「やっぱり十六文持ってたんやんか!」と再びボケで押す。 再度説明されて喜六は感心して、真似ようとして翌日に出かける。