【回顧2024】最後の日朝首脳会談から20年…切られなかった「訪朝カード」拉致被害者・曽我ひとみさん単独インタビュー
最後の日朝首脳会談から20年となった2024年。拉致問題の解決に向けた進展がみられない中、曽我ひとみさんがウェークアップの単独取材に応じました。2024年に入ってから、北朝鮮側が日朝首脳会談に言及する動きも出ていますが、訪朝の実現は…。北朝鮮と対峙した当事者たちの証言から考えます。
■証言 46年前の「拉致の記憶」
拉致被害者の曽我ひとみさん。2024年6月、これまでほとんど受けることがなかったテレビの単独インタビューに応じました。
拉致被害者 曽我ひとみさん 「4月から新潟県佐渡市の拉致対策係でみなさまに支えられながら仕事を始めました。微力ながらもう少し何かできるのではないか(と思い取材を受けました)」 曽我ひとみさんが拉致されたのは、1978年8月12日。当時は19歳の准看護師で、母・ミヨシさんと買い物に出かけた帰り道でした。時間は午後7時すぎ、親子が拉致されたのは、自宅まであと少しの場所でした。 曽我ひとみさん 「後ろから3人の男の人が歩いているのが見えまして、私たちも早足になって。その瞬間だったんですけど、引っ張り込まれて手足を縛られて口も塞がれて南京袋のようなものを頭から被されて」
拉致されたすぐ近くには、大きな川が流れています。曽我さん親子は、河口の近くの河川敷あたりから袋にいれられたまま船に乗せられ、船はそのまま沖合に出たものとみられています。沖に出て800キロほど先にある北朝鮮に到着した後、母・ミヨシさんのことを尋ねると― 曽我ひとみさん 「お母さんは日本にいるから、元気でいるからまあ心配しなくてもいいと(言われました)」
■北朝鮮での生活…横田めぐみさんと生活 ジェンキンスさんと結婚
拉致されて間もない頃、心の支えとなったのは、同じ拉致被害者の横田めぐみさんの存在でした。横田めぐみさんは、曽我ひとみさんの1年前に、13歳で拉致されていました。ふたりが当時交わしていた会話の一部を教えてくれました。
曽我ひとみさん 「横田めぐみさんと、そんなに長くはないのですが、一緒に生活できたことが、すごく私にとってはありがたかったです。めぐみさんが私の足のケガを見て『どうしたの?』って聞いてくれました。『襲われたんだけれども、まだそれからお母さんの顔は見ていないんだ』と答えました。すると、めぐみさんは『大変だったね』と。『実は自分も襲われて今ここにいるんだ』っていう話をしていまして、ふたりとも同じ境遇なんだなと感じました」 曽我ひとみさんは、拉致された2年後にはアメリカ軍兵として韓国で駐留中に、脱走して北朝鮮に入ったジェンキンスさんと結婚。2人の娘が生まれ、子育てに追われる日々が始ました。
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