【回顧2024】最後の日朝首脳会談から20年…切られなかった「訪朝カード」拉致被害者・曽我ひとみさん単独インタビュー
曽我ひとみさん 「みんなで仲良く生活はしていたが、夜になるとやはり母のこととかいろんなことを考えていました。(夫・ジェンキンスさんは)『いつか絶対お母さんにも会えるし、日本にも帰れると思うから一緒に頑張ろう』と言ってくれていました。」
■動き始めた運命…日朝首脳会談実現の舞台裏
曽我さんの運命が大きく動いたのは2002年のこと。当時の小泉首相が、総理大臣として初めて北朝鮮を訪問し、日朝首脳会談が行われたのです。この会談の交渉にあたった、外務省アジア大洋州局長だった田中均さんが、交渉の舞台裏を語りました。 外務省アジア大洋州局長(当時)田中均 日本総研国際戦略研究所特別顧問 「ひとつは拉致問題を解明するということであり、ひとつは北朝鮮の核ミサイル問題を封じて、より安全な体制を作るということ、それを僕はやりたいと思った。小泉さんは『いやそれはやってくれ。だけど秘密でやってくれ』と」 そして、田中さんは、北朝鮮側のミスターXと呼ばれる人物との交渉に着手しました。 田中均 特別顧問 「記録係が、相手の名前というのは決して確証を得るものではないから、向こうのことをミスターXと呼び、僕のことをミスターYと呼ぶ。彼(ミスターX)は『軍の中将』とか言ってましたけどね」 ミスターXは、交渉では決して拉致の事実を認めなかったといいます。 田中均 特別顧問 「後で言ってましたけれどね。拉致を認められるのは金正日だけだと。拉致という言葉は使わないけど行方不明者の消息を明らかにするという形で交渉した。相手にとって結果的にはプラスになる、益になることは何だろうかというとね、それは説得の世界なんですよ。要するに、信頼がベースにならないと交渉なんて危なくてできない。」 日朝首脳会談実現の決め手は、総理の決断でした。 田中均 日本総研国際戦略研究所特別顧問 「小泉さんのところに行ってね、『どうしますか?ずっと一年間交渉してきて必ず結果が出てくるという確信を持っています』と。そしたら小泉さんは、『もはや自分が行かないという選択肢はない。だから一も二もなく行きますよ』と」
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