人間は過去を「思い出せない」…!「語り直し」が「事実」をつくる意外なしくみ
私たちは、自分の話をするのが好きだ。 「私はこんな人である」「私はこんな苦難を乗り越えてきた」。 【写真】「ウザがられる」自慢話… 気づけば日常は、無数の「自分語り」に溢れている。 しばしば揶揄の対象となる「自分語り」。 しかし、そこには実際、どのような「わるさ」があるのだろうか。 「自分語り」に陥らないためには、どうしたらよいのだろうか。 現代社会を覆い尽くす、過剰な「自分語り」に違和感を感じるあなたへ。 美学者・難波優輝氏による【連載】「物語批判の哲学」第2回へようこそ。 【連載】「物語批判の哲学」第2回:物語という誤解・前篇 >>まだお読みでない方は、第1回・前篇「面接にも広告にも…「人生は物語」に感じる違和感の正体!「ナラティブ」過剰の問題」もぜひお読みください。
「自分語り」が好きな人類
私たちは自分の話をするのが好きだ。 とりわけ、自分のこれまでの話をするのが好きだ。たとえば、人と仲良くなるとき、人は自分がどんな来歴で生きてきたのか、どんなハイライトがあり、どんな挫折があり、どんな成長があり……と語り合って喜ぶ。悪いことではないようにみえる。楽しいことじゃないか。 対面に限らず、デジタルな環境で、とりわけ、SNSで、私たちは、自己語りを行う。「私はどんな人である」「私はどんな苦難を乗り越えてきた」。人びとは無数の語りをつぶやき、投稿し、シェアし、いいねを押している。これも悪いことではないようにみえる。活気があり、共感があり、盛り上がりがある。 これらが目指しているのは「理解」だ。互いの信念であったり、情動であったりを理解することを目指している。理解し合えると、人は嬉しくなる。だから、人びとは、自分について一生懸命に説明する。 こうした「自己語り(self-narrative)」」はどんな語りだろうか。どのようなタイプの自己理解あるいは他者理解なのだろうか。 私たちは、自分自身を語ることで互いを理解し合えると信じている。しかし、その自己語りはほんとうに自己理解に寄与するのだろうか。自己語りを聴くことで、他人の理解が進むのだろうか。 たとえば、就職活動の面接ではしばしばその応募者の自己語りが強要される。それは、本当に意味のあることなのだろうか。あるいは、私たちの語りは知らぬ間に過去を歪め、理解を妨げ、偽りの自己の虚飾を作り上げ、さらには他人への不当な解釈という暴力へと転じる危険を隠し持ってはいないだろうか。 私たちが「自分」を語るその行為は、一見すると何の問題もなく、他愛もない理解の実践のように思える。しかし実際には、そこには常に過去をどのような観点や枠組みで再構築するかという、いわば歴史的・歴史学的な営みが潜んでいる。