人間は過去を「思い出せない」…!「語り直し」が「事実」をつくる意外なしくみ
しかし、実は危ない「自分語り」
歴史哲学における「歴史的語り」の分析において、歴史的語りは単なる事実の再現ではなく、再解釈のプロセスであるとされている。そのような視点から自己語りを批判的に眺めると、私たちの日常的な「自分の物語」がどのようにして恣意的なフレームワークを介して形づくられているのかが見えてくる。 たとえば、就職面接で求められる「自己PR」は、建前としては、応募者が自分自身の来歴を正直に説明する場のようにみえる。だが、実際には、聞き手である面接官の心に響くような特定の筋書きを意識して「自己」を再構成している。 また、SNS上での自己紹介や投稿も同様に、そこには、共感を引き出すためのドラマティックな演出や反応を得るための強調や大胆な省略があり、それらが「私とは何者か」という理解を微妙に歪めている。その歪みの悪影響は読み手だけでなく、投稿する当人自身にも及ぶ。 このような日常の自己語りを、私たちはどのように評価し、どのような危うさを見抜くことができるだろうか。 こうした自己語りがもたらすのは単なる自己満足や共感ではない。自己語りのあり方が生み出す認識的な偏りや歪みは、他人に対する理解にも影響を及ぼす。ときには、相手の人生を自分勝手な語りへと還元し、その人が自分を解釈する権利を奪うような、暴力的な「物語的不正義」へと至ることすらある。今回の論考では、こうした不正義を指摘し、その是正のための概念である「物語的徳」を提示する。 本稿は、「物語批判の哲学」シリーズの第二回として、私たちが自分を語ること、それを通じて他者を理解しようとすることが抱える構造的な問題にフォーカスする。第一回では物語概念への全体的な懐疑を提示したが、今回はより具体的に「自己語り」を取り上げ、物語がどのようにして理解を促し、あるいは誤解や不正義を生み出してしまうのか、そのメカニズムと倫理的・認識論的側面に踏み込むことになる。 本稿の構成は以下の通り。まず、歴史哲学の議論を参照しながら、自己語りが「過去を制作する」行為であることを明らかにする。自己語りは、歴史的な語りの一種である。それゆえ、歴史的な語りについての理解を深めることで、自己語りについてもうまく考えることができるようになるはずだ。第二に、自伝の哲学の知見を参照して、自己語りが他者理解や自己理解においてどのような特性と限界を持つかを検討する。第三に、物語をめぐる危険を指摘するために、物語不正義という概念を提案し、物語的徳を高める必要があると主張する。