中山美穂さんを14歳でスカウトした「恩師」が明かす“6畳生活”と“月給5万円”から国民的スターになるまで
■「やっこ」「みほ」と呼び合っていた 美穂さんは同日の午前2時半に事務所関係者にLINEを入れたのが最後に連絡が取れなくなった。死亡推定時刻は午前3時から5時とみられている。浴槽の中で、座った状態で顔を水面につけていたという。死因については、美穂さんがお酒や常備薬を飲んで入浴したからではないかという臆測も流れた。だが、山中氏はこう否定する。 「お酒を飲んで入浴というのはあり得ません。美穂はコンサートの前は絶対にお酒は飲まなかったですから。そこは徹底していました。常備薬というのも、事務所関係者に私は何度も問いただしたんですが、『それだけは絶対にないです』と断言していました。誰かがそばにいたら助かったのに、という残念な気持ちはあります」 山中氏と美穂さんが出会ったのは14歳のとき。中学1年の美穂さんを東京・原宿でスカウトしたことがきっかけだった。山中氏は第一印象をこう語る。 「目がいい、目力があると思いましたね。どんなにスタイルがよくても目が死んでいたらダメなんです。売れっ子になるな、というのはパッと見た瞬間にわかります。美穂を見て,売れると直感しました」 当時、山中氏はモデル事務所「ボックスコーポレーション」を設立していたため、美穂さんも同事務所にスカウトした。 「美穂は未成年で親の許可が必要でしたから、お母さんも事務所に来ていただき、近くの喫茶店で、お母さんと3人でお茶をしました。美穂は『ママはすごく苦労してきた。いつか、ママに家をプレゼントしたい』と言っていました。そんな話を聞きながら、この子にかけてみたいと思ったんです」(山中氏) その後、山中氏は「ボックス」を退社し、美穂さんと遠藤康子の2人のタレントを連れて、「山中事務所」を創設した。 「遠藤も私がスカウトしました。年も1つ違いで『やっこ』『みほ』とお互いの名前を呼び合って仲が良く、一緒に遊びにも行ってましたね。美穂が『静』ならば、遠藤は『動』。遠藤のほうが一つ年上でしたので親分肌で、美穂にいろいろと教えていました」(同) その頃、山中事務所は渋谷区の参宮橋駅から徒歩7~8分のところにあった。 「マンションの1階で、6畳と4畳半の2部屋と流し台だけ。家賃は4万5000円で、自宅兼事務所でした。一生懸命に営業したんですが、最初は2人とも全然売れなかった。それでも毎月5万円ずつ、2人に給料を払っていました。ですが、途中で2人を維持するのは難しくなってしまい、遠藤は知り合いの芸能事務所にお願いしました。その遠藤は歌手の橋幸夫さんが副社長を務めるレーベルから、歌手デビューが決まっていたんです。ところが、デビュー前、1986年に自殺してしまった……。死の1週間くらい前には美穂や私に『私も負けないように頑張るから応援してね』と電話があったんです。もう衝撃で、美穂と2人で大泣きしました」(同)