化学者が愛した美しい「分子」の世界 ノーベル化学賞
この「くるくると回転している」という仮説を立てたのがボイヤー博士ですが、発表当時(1982年)はこの酵素の構造がまだよく分かっていなかったことと、仮説があまりにもユニーク過ぎたことで、研究者の間でもなかなか受け入れられなかったそうです。その後、1994年にジョン・ウォーカー博士がX線結晶構造解析によってこの酵素の3次元構造を観察したことから、ボイヤー、ウォーカー両博士がノーベル化学賞を受賞しました。 また、ATP合成酵素を解明した研究がノーベル賞を受賞した1997年、光学顕微鏡を使ってこの酵素が回転する様子が観察されました。観察したのは日本の研究グループで、ATP合成酵素に、筋肉を構成するアクチンで作った紐状のものを取り付けることで、酵素が回転している様子を捉えたのです。 ATP合成酵素は細胞の中にあるのですが、人間の場合は細胞内のミトコンドリアという二重膜で包まれた小器官の内膜にあります。膜に埋まっている部分をF0、膜の内側に出ている部分(ミトコンドリアの内部)をF1と呼び、F0が回転することでATPが作られます。実はもう片方のF1はF0とは逆の働きをしています。膜の中にあるF0部分は水素イオン濃度の差を利用して回転し、ADPとリン酸からATPを作り出します。一方、膜から飛び出しているF1部分はF0と逆回転することで、ATPをADPとリン酸に分解しています。私たちの体の中では、絶えずATPからエネルギーを取り出し、一方でエネルギーの低いADPとリン酸分子からATPを作り出す。これを繰り返すことで生命活動を維持しているのです。 このATP合成酵素はほとんどすべての生物が持っている分子で、植物のものでも人間のものでも分子の形状にあまり違いはありません。光合成植物の場合、ミトコンドリアだけでなく細胞内にある葉緑体のチコライド膜というところにもあります。チコライド膜にあるATP合成酵素は、取り込んだ光で水素イオン濃度の変化を作りF0部分を回転させます。つまり、光がATP合成酵素を回転させるスイッチのような役割をします。周りの環境に合わせてエネルギーを作ったり、作るのをストップさせたり、非常によくできています。 ATP合成酵素のように、体の中で生命活動を維持するために動いている分子を「生体分子モーター」と呼び、現在では細胞内の物質を輸送するキネシンなども生体分子モーターとして知られています。目に見えないほど小さな分子、その形がとてもユニークでおまけに私たちの体内で、くるくると回転し続けている――。分子の世界がとても不思議で魅力的に見えてきませんか?
◎日本科学未来館 科学コミュニケーター 保科優(ほしな・ゆう) 北海道生まれ。専門は地球科学。雪と氷の世界に魅せられ、大学院在学時に南極観測隊に参加。過去の雪から古気候を復元する研究。研究所で温室効果ガスの研究を経て、2018年10月より現職