西武黄金期を築いた名将が「優勝慣れしたチームに再び火をつけた方法」
今シーズンの西武は最下位に終わり、途中で松井稼頭央監督が休養するなど低迷した。ただ、西武はかつて常勝軍団と呼ばれ、パ・リーグを牽引した球団だ。そんな黄金期の西武で打撃コーチを務めていた広野功氏が、強かった西武を振り返る。本稿は、沼澤典史『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)を一部抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 「球界の寝業師」根本陸夫から呼び出し 「森が求めたのはお前だけだ」 1987年のシーズンが終わると広野功の元へ電話が入った。相手は西武の球団管理部長で、実質的GMでもあった根本陸夫である。根本は監督として西武黄金期の礎を築き、その後、管理部長として巧みなスカウトやトレードで球団を支えた「球界の寝業師」と呼ばれた男である。 「話があるから、東京プリンスホテルに来い」 広野が向かうと部屋の中で根本が待っていた。大正生まれで数々の修羅場を経験した根本は、険しい顔つきで広野に告げた。 「森(編集部注:森祗晶監督)がどうしてもお前がほしいと言うから、契約する。1800万円だ」 そして、根本はこう続けた。 「広野、よく聞け。今の首脳陣は俺が全部決めた。ただ、森が唯一どうしてもと言ったのがお前だ。森が呼んだのはお前だけだ。どういうことかわかるか。森が『カラスは白い』と言えば、お前も白いと言うんだ」 森の側近として忠誠を誓え、という根本なりのメッセージだった。 森が広野を求めた理由の第一は、「清原(和博)を立て直せ」。打撃コーチに就任した広野に、森はそう厳命したのである。
● 清原和博の類い稀な才能 「清原は落合博満と同じ」 広野が就任したとき、清原はプロ3年目。1年目の1986年には、打率3割4厘、本塁打31本、78打点と高卒離れした成績を打ち立てた。2年目も29本塁打83打点と好成績だったものの、打率は2割5分9厘と前年に比べて落ち込んでいたのだ。 「清原は落合(博満)と一緒で、軸足の右足がバッティングの際に全然動かない。膝が割れたり、中に入ったりせず、母指球の上にある。打つ時にも、かかとが後ろに回らず、股関節がぐっと回るため、逆方向にも強い打球が飛ぶんです。清原の2年目はそれが崩れていたこともあり、この打撃理論を伝えて修正させたんですわ」 これはまさに、広野がロッテの打撃コーチ時代に、落合に対して行った「いい状態を保ってやる」という指導だ。二軍のコーチは、一から技術指導を行うことが求められるが、一軍コーチはいかに選手の良さを見つけて調子を維持させ、モチベーションを上げるかが仕事になる。それが広野の信条である。 広野はコーチ時代、常に投手の配球をチャートブックに記録していた。コーチ就任当初のシーズン前には、それを見せながら清原ら西武の野手陣にこう言った。