西武黄金期を築いた名将が「優勝慣れしたチームに再び火をつけた方法」
しかし、翌1989年は最終的に西武は3位に陥落。優勝が目前だった10月10日からの近鉄戦はラルフ・ブライアントに3打席連続本塁打を浴びるなど3連敗。これでペナントの行方は決した。 「選手は、みんな優勝慣れしているというか、シラーッとしてるんですね。あの近鉄3連戦は誰も燃えてなかったように見えました」 この年のオフには、ある騒動が起きる。森がシーズン終了報告に行ったところ、オーナーの堤義明は「(監督を)やりたいなら、おやりになればいいんじゃないですか。どうぞ」と発言。これが物議をかもした。 「森さんと森さんの奥さんは、すごい怒ってたんだけどね。でも、我々コーチ陣は生活がかかっていたから森さんに続けてほしい。僕は『森さん、好きにすればいいと言われたんだから契約すればいいじゃないですか』って言ってね。結果的に、森さんは契約するんだけど、みんなが契約し終わった後にした。そこで、我々コーチの給料を上げてくれと交渉したんです。そこから給料が上がり、みなやる気を出したんですわ」 このときから広野らコーチの年俸は3000万円に上がった。選手たちはともかく、意気に感じたコーチたちの士気は爆上りしたのである。
● AKD砲炸裂の裏にあった密約 森監督「打撃は修正させるな」 翌1990年、西武は初めてハワイのマウイ島で春季キャンプを敢行。チームの空気を変えるためという首脳陣の思いのほかに、裏には西武グループ特有の事情もあった。 当時、マウイ島では西武グループが「マケナリゾート」を開発しており、マウイプリンスホテルが建っていた。西武がキャンプを張れば、マスコミは連日宿舎であるホテル名を出す。このキャンプはホテルの宣伝も兼ねていたのだ。 「島には球場がないから、近くの高校のグラウンドを午前中だけ借りるんです。そこからホテル横に移動し、ネットに向かってひたすらティーバッティングをさせました。清原には1日700球ほど打たせました。その年からコーチを務めた片平晋作はトスを上げすぎて、肘を腫らしていましたよ」 このマウイキャンプの甲斐あってか、西武は2年ぶりの優勝と日本一を達成。デストラーデが42本、清原が37本、秋山が35本とAKD砲が炸裂した。一方、この打線大爆発の裏では、森と広野によるある“密約”があった。