トランプが核合意離脱 アメリカはなぜイランを敵視する?
「イスラム革命」と「大使館襲撃」
モサデク政権が崩壊した後、イランでは米国の庇護のもと国王(シャー)が自ら農地改革など社会や経済の近代化を進めましたが、格差は大きいままでした。その一方で、米軍やCIAの支援のもと、軍と情報機関による強権的な支配は、むしろ強化されました。 独裁的なシャーの支配により、国民生活がひっ迫するとともにイスラムが社会の傍流に追いやられる状況に反感と警戒感が強まり、その抗議の中心にあったのがイスラム聖職者でした。1978年、ゴムという宗教都市で生活苦を背景に、言論の自由や検閲の廃止、宗教の自由などを求める大規模な抗議デモが発生。デモは各地に飛び火し、これに軍隊が無差別に発砲したことで、さらに抗議デモは拡大しました。 混乱が広がる中、1979年1月にシャーは病気療養の名目で事実上、亡命しました。入れ替わりに、抗議運動の精神的支柱だったホメイニ師が亡命先のパリから帰国し、イスラム臨時革命政権が発足。このイスラム革命は、シャーによる専制と世俗化の反動で、イスラムの教義と国民の政治参加を融合させた「イスラム共和制」の導入にイランを向かわせました。その結果、3月には国民投票が行われ、98パーセントの圧倒的多数で、イスラム共和制の導入が可決されたのです。 それと同時に、イスラム革命は、シャーと結託して石油利権の多くを握り、内政をも左右してきた米国への敵意を噴出させる契機にもなりました。イラン政府はしばしば米国を「大悪魔」と呼び、同年10月に米国政府がシャーの亡命を受け入れたことをきっかけに、首都テヘランにある米国大使館を群衆が襲撃。52人の米国人が人質にされました(在イラン米大使館人質事件)。 国際法上、保護の対象となっている大使館が襲撃され、新政権がこれを制止しなかったことで、米国の反イラン感情も噴出。米国内の銀行にあるイラン政府の預金などの資産が凍結され、翌1980年4月に米国はイランと断交しました。大使館占拠事件は、その後の米国によるイラン敵視の源流となったのです。