トランプが核合意離脱 アメリカはなぜイランを敵視する?
革命の輸出、融和模索、反米感情の再燃
こうした背景のもと、米国はイランの隣国イラクのサダム・フセインに接近。1980年9月に米国から武器支援を受けたイラクがイランへ攻撃することで、「イラン・イラク戦争」が始まりました。 イランからみて「革命への介入」であるこの戦争は、イランの反米感情をさらに強めるものでした。そのため、イランはイラン・イラク戦争と並行して核開発に着手したとみられています。 さらに、この時期からイランは「革命の輸出」を開始。イスラムの少数派であるシーア派の中心地であるイランは、近隣のスンニ派諸国でシーア派組織を支援し、イラン型のイスラム共和制の樹立の拡散を目指し始めたのです。 1982年に発足した、レバノンの反イスラエル組織「ヒズボラ」は、その代表例です。また、シリアのアサド政権はやはりシーア派の一派アラウィー派で占められており、イランはこれとも友好関係を深めました。ヒズボラやアサド政権はいずれも米国や、その同盟国イスラエルと敵対しています。これは米国のイラン敵視をさらに強め、1984年1月に米国はイランを「テロ支援国家」に指定しています。 その警戒心の強さは、イランによる関係改善の模索をも無視するほど強いものでした。 イランでは1988年にイラン・イラク戦争が終結し、翌1989年にホメイニ師が死去すると、革命の理念を追求する保守派に代わり、国際協調を模索する改革派が台頭。1997年に大統領選挙で勝利した改革派のハタミ大統領は「文明間の対話」を掲げ、国際的な孤立からの脱却を目指し、日本やヨーロッパ諸国との関係改善を進めました。
しかし、この動きを米国は基本的に無視しただけでなく、2001年9月の同時多発テロ事件を受けてブッシュ大統領(当時)はイランを、イラクや北朝鮮とともに「悪の枢軸」として名指ししました。 この反応を受け、イランでは再び反米感情が広がり、2005年の大統領選挙では保守強硬派のアフマディネジャド氏が当選。折しも2003年のイラク侵攻で、やはり「悪の枢軸」として名指しされていたフセイン政権が崩壊したことを受け、米国への警戒感を募らせたアフマディネジャド大統領のもと、イランは核・ミサイルの開発を加速。2006年4月に低濃縮ウランの製造成功を、2007年11月にはヨーロッパの一部を射程に収める準中距離弾道ミサイル「アシュラ」の開発成功を発表。米国との対決姿勢を鮮明にしていったのです。