なぜ2人の個性派投手が殿堂入りしたのか…元中日の山本昌氏とヤクルト高津監督の「補欠」「魔球」「野球生命長寿」の共通点
4つの教えがあったという。「上から投げなさい」「ボールは前で放しなさい」「低く投げなさい」「ストライクを投げなさい」の4つ。 「そんなものは言われなくともわかっている」と思っていたが、懇切丁寧で根気強い生原氏の指導を受けるうちに「わかっていてもできていない」と我が身を知った。「僕は最後まで技術を追いかけたが、そこに重なる」と言う。 スクリューボールと出会ったのも、そのアメリカだった。生原氏は、フェルナンド・バレンズエラ、サンディー・コーファックス、オーレル・ハーシュハイザーらメジャーのトップスターに山本昌氏を引き合わせてくれ、直接、変化球を教えてもらったが、どれも会得することはできなかった。 だが、ある日、内野手がキャッチボールをしているのを眺めていると、その一人が遊び半分で投じていたボールが驚くくらい落ちていた。山本昌は頭を下げて、その内野手に教えを請うた。それがのちに130キロ台のストレートを打者に「速い」と錯覚させることになる“魔球”スクリューである。 2人のゲストスピーカーとして選ばれた2015年に殿堂入りしている古田敦也氏は、山本昌氏とは昭和40年会の同級生。ライバルでもあり友人でもある古田氏は、プライベートの席で沢村賞の受賞経験(1994年)のある山本昌氏に「史上最も遅いボールの沢村賞じゃないか」と“褒め言葉”を送ると「奪三振タイトルも取っている(1997年)」と言い返してきたという。 究極のテクニックだ。 「僕と星野伸之(元オリックス、阪神)には”ボールが遅い”は、褒め言葉。ボールは速くなくて、見てくれは良くないが色々なことを駆使すれば勝てる。ボールが速くない少年たちも希望を持って欲しい。遅い球でよく50歳まで投げた」 山本昌氏は、32年間現役を貫き、50歳まで投げた。2006年9月16日の阪神戦では、41歳1か月で史上最年長ノーヒットノーラン。古田氏が偉業の裏話を明かす。 「それが無四球。パーフェクトゲームだったが、森野がエラーした。ガックリしている森野に“あのエラーがなければノーヒットノーランができていない”と話かけて器の大きさを見せた。僕もノーヒットノーランのキャッチャーを何度か経験しているが最後はボール球ばかりを投げるもの。なのにストライクで勝負した。ほんとに凄い」 49歳0か月で史上最年長勝利も記録した。 山本昌氏は、“選手生命長寿“のきっかけは、初動負荷トレーニングを編み出した「ワールドウィング」の小山裕史氏と30歳で出会ったことだという。 「故障がなくなり投げる技術を追いかけられるようになった」 そして「ドラゴンズでないと無理でした」と4人の中日監督への感謝の言葉を忘れなかった。 山本昌は、引退を告げた日の電話まで、一度も褒めてもらったことがなかった故・星野仙一氏に叱られ、殴られながらも「打たれても使うぞ」と登板機会をもらい続けて成長をとげた。逆に「一人前と認められて怒られたことがなかった」という故・高木守道氏の下で、1993、1994年と2年連続で最多勝タイトルを獲得し、山田久志氏には、厳しさを教えられ、落合博満氏の「同じ力なら経験があり勝てる投手を使う」の言葉に励まされて、40代を生き抜き、最後に「辞めてから意味がわかる」と落合GMに50歳にして現役のチャンスをもらった。 「頑張っているとなんとかなる。努力をやめたときに終わる」 それが山本昌の人生訓であり、子供たちへのメッセージでもある。