ミャンマーのスー・チー氏はどんな人? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
ミャンマーの国会議員選挙(上下両院)の開票結果が出そろい、アウン・サン・スー・チーさんが党首の国民民主連盟(NLD)が改選議席491議席の約8割を占める390議席を獲得し、政権交代が実現しました。テイン・セイン現大統領は軍部の流れを引く政権だったのでミャンマーの民主化がいっそう進むと期待されていますが、スー・チーさん自身は憲法の規定により大統領になれません。 そこで、大統領にもなれないのにどうしてこれほどスーチーさんは注目され、期待されているのか? について考えていきます。
●「独立の指導者」の娘
ミャンマー(ビルマ)の近現代は激動の歴史です。イギリス植民地からの独立を目指した反ファシスト人民自由連盟のアウン・サン総裁がスー・チーさんの父親です。彼が暗殺された後に総裁となったウー・ヌ氏らによって1948年に独立を果たし、社会主義的な政策を推し進めたものの内外の政争に明け暮れて不安定な状態が続きました。 62年のクーデターで政権を握ったネ・ウィン将軍は以後、独裁政権を敷いていきます。軍の勢力をバックにいかなる外国の資本や人の流入も原則として認めない「鎖国」政策を用います。こうした容易に外国人の入国を許さない国は当時、ホッジャ独裁のアルバニアと双璧で典型的な「謎の国」でした。 80年代後半に入ると開放経済圏ともソ連を中心とする計画経済圏とも付き合わない「ビルマ式社会主義」の経済的な行き詰まりは甚だしくなり、また長期独裁への反発も日増しに強まっていきます。 1949年に当時のビルマ首都(当時)ラングーン(現在のヤンゴン)に生まれたスー・チーさんは15歳の頃からインドで学んだのを皮切りにイギリスの大学を卒業。主にイギリスで研究生活をしてきました。イギリス人と結婚(死別)しています。
●民主化の旗手
そんな彼女が母親の見舞いで帰国した1988年、学生運動に端を発した大規模な民主化要求が広く市民の抗議活動へと発展し、ついにネ・ウィン退陣へと追い込みました。さなかに民主化を支持する演説を行ったのが民主化勢力の大評判となります。あでやかな姿と「アウン・サン将軍の娘」という血統および国際性であっという間にヒロインとなったのです。 運動そのものはクーデターを起こした軍によって徹底的に弾圧されました。それでもスー・チーさんは90年に予定されていた総選挙を勝ち抜くべくNLD結党にまい進し大勝利を収めます。しかし軍政はこの結果を葬り去って政権に居座りました。国際世論はこの状況に沸騰し、軍政を批判するとともに対抗するスー・チーさんを民主化のシンボルとみなして91年にはノーベル平和賞が授与されました。 スー・チーさんは以後、長期間にわたり断続的な自宅軟禁状態に置かれるようになりました。短期間の解放をされても民主化要請と軍事独裁批判の姿勢は変わらず、再び、三度と軟禁生活に逆戻りを余儀なくされてきました。アメリカや欧州西側主要国は一貫してスー・チーさん支持を表明し続けます。 なぜ軍政にとって目の上のたんこぶであるスー・チーさんを政治犯として刑務所送りにするのでも殺害するのでもなく軟禁という手段を続けたかについてはさまざまな説があります。 国内的にはやはりアウン・サン将軍の長女という点が大きいでしょう。軍を率いて独立にまい進した人物の子を抹殺すれば軍の正統性が揺らいでしまいます。国際的にはノーベル平和賞を授与されるなど高い知名度を誇っていて(ゆえに邪魔でもあったのだけれど)うかつに手を出せば今をはるかに超える国際社会の圧力を受けかねないとの不安もあったようです。いっそ海外に渡ってくれればと思ってもスー・チーさんが母国での運動を選んだためできませんでした。