【プロ1年目物語】大型補強全盛期の長嶋巨人で1年目からレギュラー奪取! 叩き上げの安打製造機・清水隆行
ヤングルーザーたちが集う真夏の入部テスト。正直、「野球はもういいかな」と思っていたが、自分がダラダラとプレーすると浦和学院の評判を落としてしまう。黙々とメニューをこなした清水は、結果的に合格通知を受け取ることになる。実は東洋大野球部の高橋昭雄監督は、以前から清水のバッティングに目をつけていたという。 「清水が高校3年のとき、浦和学院と合同練習をやってね。ウチの4年生だった桧山進次郎(阪神)と並んでバッティングさせた。高校の四番と大学の四番。そのころから清水は思い切りがよくて、桧山と比べても甲乙つけがたい印象だったよ」(週刊ベースボール1996年7月22日号) だが、実際に入部すると同期の甲子園出場組がレギュラーの練習に参加するのを横目に別メニューの日々。運命が変わったのは、3月の社会人・本田技研とのオープン戦だった。突然、代打で指名された清水は左打席に入ると、この年のドラフトで広島から1位指名を受ける佐藤剛から、グラウンド後方の道路まで飛び出す特大アーチを放ってみせたのである。無名の1年生がプロ注目の社会人右腕からかっ飛ばした完璧なホームランは、その後の野球人生を切り開くきっかけとなった。
センスある打撃に長嶋監督も注目
3年春には打ちこみのやり過ぎで右手てのひらを骨折するアクシデントに見舞われるも、怪我が癒えた4年時には福岡ユニバーシアード大会で日本代表チームの四番を務め、広い福岡ドームで1試合2本塁打を記録するのだ。東都No.1の大型スラッガーと称され、1995年のドラフトでは希望通り巨人から3位指名。巨人が原俊介(東海大相模)を抽選で外した場合は、外れ1位候補として報じられるほど前評判は高かった。 担当の城之内邦雄スカウトからは、「とりあえず3年はがんばってみろ」と声をかけられ、3年は死にもの狂いで野球に打ちこもうと心に決めた。1年目の1996年春季キャンプは、前年限りで現役を引退した原辰徳の背番号8を継承した仁志と、異例の8年契約で入団した韓国代表右腕のチョ・ソンミンが注目を集めており、背番号35の清水は決して話題の新人というわけではなかった。しかし、初めてのキャンプで披露したセンス溢れるバットコントロールに長嶋茂雄監督は、「清水はいいですよ。非常に柔らかい打撃をしています。将来は必ず、松井と並んでウチのクリーンアップを打ってくれるはずです」と絶賛。武上四郎打撃コーチも「キャンプで一番、バットを振った男なら、それは清水だろうね。1日、千本は振ったと思うよ」とその厳しい練習に耐えうる体力と精神力を併せ持つルーキーに期待を寄せた。 当初は二軍でじっくり育てる予定も、22歳の若者は紅白戦やオープン戦で結果を残し続ける。開幕直前の西武とのオープン戦では、レギュラー外野手のシェーン・マックが試合前練習で頭部に打球を受け、代役出場の清水が郭泰源からホームランを放ち、開幕一軍入りを決定づける。仁志が開幕スタメンで猛打賞のド派手なデビューを飾ったのは対照的に、清水は開幕2戦目に代打で初出場。当時の巨人外野陣は、右翼・松井秀喜、中堅・マック、左翼・広澤克実とレギュラーが固定されていたが、オープン戦で広澤が死球を受けて骨折。長期離脱したことで清水にも早々にチャンスが回ってくる。 4月14日の横浜戦、「六番左翼」で初スタメンを飾ると、島田直也からプロ初安打を記録。4月23日の広島戦では加藤伸一から代打でプロ初本塁打を放つが、レフト守備ではバックホームを焦りボールを大きくはじく失策で決勝点を許す。守備面では不安を抱えていたが、5月10日の阪神戦で初の猛打賞に4打点の大活躍。打率を3割に乗せ、スタメンに定着していく。5月19日のヤクルト戦では、田畑一也から先制の4号ソロアーチを放ち、完封勝利のガルベスと並んで初めて本拠地・東京ドームのお立ち台に上がった。