街クラブ『KAGO』のMARUコーチが語る創設からの15年間(前編)「バスケってもっと楽しいよ」
「とにかく『バスケを盛り上げたい』一心でした」
大阪府を拠点に日本バスケットボールの育成と普及を考える集団『KAGO』が、今年4月に創設15周年を迎えた。小中学生を対象としたスクール事業『KAGO SCHOOL』は福岡、東京、兵庫、千葉にも広がり、生徒数は1000人、コーチは50人を超えた。U15世代のクラブチーム『KAGO CLUB』は男女ともに『U15ジャパンクラブバスケットボールゲームズ(通称:全クラ)』で日本一を経験。全国屈指の強豪クラブとして名を知られるようになっている。 街クラブとバスケットボールスクール。そのいずれもが珍しい存在だった2000年代にKAGOを立ち上げた『MARU』こと丸田健司に、立ち上げにまつわるエピソードや今後の展望について語ってもらった。 ──まずは、KAGOを立ち上げるまでの経緯について教えて下さい。 アメリカの短大でのバスケ留学を終えた後、「大阪ディノクス」という大阪の実業団チームでプレーしながら、チームが運営する小中学生向けのバスケットボールスクールのコーチになったのが最初のきっかけです。掛け持ちで「大阪籠球会」というストリートバスケチームにも所属していて、大阪の小中学校を50校くらい回って無料クリニックを行う取り組みをしていたんですが、そういうことをしているうちに「教えることも好きだな」、「自分でスクールを作りたいな」という思いが強まっていきました。 ──大阪籠球会は公的な団体ではありませんし、メンバーも20代が多かったと思います。そこから学校とのコネクションを構築されて50校を回ったというのはすごいですね。 とにかく「バスケを盛り上げたい」という一心でしたね。そういう気持ちが伝わったのか、ある地区のバスケットボール協会の方から「何か一緒にできることはないか」と声をかけていただいたのが次のきっかけ。「バスケのスクールを作りたいと思っています」と話したら、体育館確保に力を貸してくださると言っていただけたんです。当時僕は「バスケでごはんを食べたい」という思いでプロ選手を目指していましたが、「コーチとしてそれを実現しよう」と腹をくくり、実業団を退団して24歳だった2009年にKAGOを立ち上げました。 最初は完全に口コミで、5人からのスタートでした。ただその中に、興味本位で来た大橋大空(現横浜エクセレンス)や北條海樹(昨シーズン豊田合成スコーピオンズ)がいたのは大きかったですね。彼らが大阪府選抜の一員になり、ジュニアオールスター(都道府県対抗ジュニアバスケットボール大会)で優勝したことをきっかけに認知度が一気に広がりました。 ──立ち上げ当時はどのようなコンセプトで選手たちを指導していたんですか? 正直に言うと「みんながやっていないことをやって認められたい」という気持ちが強かったですね。選手としては大きな結果を出せなかったので、指導者として結果を出したい、注目を浴びたいと。ただ、その中で「バスケってもっと楽しいよ」ということは伝えようとしていました。僕が中高時代に所属していたチームはものすごくスパルタで、いつも「やめたい」と思いながらバスケをやっていました。それでもバスケが好きだから続けて、アメリカに行ったことで楽しみ方を知ったし、ストリートバスケからもそれを学んだので。