「まっとうに育つしかなかった」小6だったあの日から10年。親世代が人生をかけてくれた「復興」のその先へ #これから私は
その夜から、約一カ月間に及ぶ学校での避難生活が始める。 ―避難生活はどうでしたか? 坂本樹さん: 正直にいうと、慣れてしまうと楽しくて。お泊まり会みたいな雰囲気で、子どもたちは結構はしゃいでいました。でもそれって、大人たちが必死でそういう空気をつくってくれていたんですよね。 子どもの前では暗い顔はなるべくしないで、「たつきの野球チームのメダルが見つかったぞ!」とか、明るい話題ばかりを振ってくれて。父は、どうしても自宅の様子を歩いて見に行きたいという僕のために、10kmの道なき道を歩いて長靴を買ってきてくれたこともありました。でも、そうやって僕たちに笑顔を見せながらも、本当はすごい苦労があったわけじゃないですか。僕たちはそれに気づかないまま一カ月の避難生活を過ごしていたんです。
「普通の暮らし」を思い出せなくなってしまった
家族は全員無事だったものの、自宅は全壊。仮設住宅での生活を余儀なくされる。 ―仮設住宅での暮らしはどうでしたか? 坂本樹さん: 不自由だとは感じませんでした。もちろん、狭かったし、寒かったし、隣の音のトイレの音まで聞こえてくるのは本当に嫌だった。でも、どんどん感覚が麻痺していくんですよ。自分たちが「普通ではない生活」をしていると認識したのは、中学校で他県の生徒との交流会に参加したときです。「大変ですね」と言われて、「あ、やっぱり普通じゃないんだ」って。そのときに「僕はこの街をでないとダメだ」とはじめて思いました。 ―それはなぜ? 坂本樹さん: 僕のなかで「復興前の暮らし」がイメージできなくなっていることに気づいたからです。「復興って何をめざして、何をしたらいいの?」という素朴な疑問があって。もう一度、震災前の「当たり前の生活」を思い出すために震災の被害の少ない、仙台の高校へと進学しました。 高校までは電車で二時間半。帰り道、あるところを境にして街灯がなくなるんです。そういう景色を見て「やっぱりすごいダメージを負ったんだな」と改めて実感しました。反対に「あ、ここまで治ったんだ」と気づいたり。。街がよみがえっていく様子を車窓から眺めていた3年間だった思います。どこかひと事な感想になのは、やはり地元を離れていたからかもしれません。 高校時代にはこんなこともありました。ある日、自転車のふたり乗りをしていたら、奈良県から仙台に派遣されていた警察の方に補導されちゃったんです。その人は僕たちを注意しながらも、すごく面白おかしく話してくれて。補導されているのに笑っちゃうくらい。僕は「関西弁ってすごい!」と変に感動してしまって、実はそれが関西の大学へと進学したきっかけです。