荒井由実、細野晴臣からYMOまで...。プロデューサー/音楽家・村井邦彦が語る伝説のアルファレコードとシティポップ「魅力はアナログじゃないかなと思う」
村井 お世話になっていた川添浩史さん(キャンティのオーナー)がエディの友人だったこともあったのだろうけど、エディは僕をしっかり者と思ったんじゃないかな(笑)。 ともかくよくフランスに通いました。フランスの音楽界の人たちと何度も会う中で信頼を得ていきました。僕はその後も、アメリカでキャロル・キングなどの曲も買い付けますが、フットワークはよかったと思います。また僕は作曲家だから音楽好きの連中ともウマが合ったんですよね。 ――そこからプロデューサーとしても活動するわけですが、作曲家との両立でストレスは? 村井 まるでなかった。自分の音楽も、自分がいいと思う音楽を売り込むのも同じこと。ミシェル・ルグランのアメリカでの出版権を持っていたのはドン・コスタという編曲家で、当時は音楽ビジネスを手掛ける音楽家がたくさんいたんです。 当時の日本のレコード会社はほとんどが電機メーカーの子会社で、トップは音楽の専門家ではなかった。音楽家のほうがどれがいい音楽かがわかると思います。僕が最初に買った曲には「マイウェイ」がありました。 ――世界的名曲を! 日本での契約第1号が荒井由実さんだったというのも、いかに慧眼(けいがん)だったかを証明しています。 村井 ユーミン(荒井由実)とは彼女が高校生の時に知り合って、最初は作家として契約したんです。後にデモテープで歌を聞いていいと思って、1973年にアーティストとしてデビューさせました。 ――1977年にはレコード会社・アルファレコードを設立。今度は荒井由実さんのデビューアルバム『ひこうき雲』のバックを手がけた、キャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)の細野晴臣さんとプロデューサー契約を交わします。 村井 細野くんには最初に会った時から才能を感じました。彼とは1970年に川添さんの自宅で出会ったんです。素晴らしいベースプレイヤーです。『ひこうき雲』(1973年)、雪村いづみの『スーパー・ジェネレーション』(1974年)、小坂忠の『HORO』(1975年)とかアルファで制作した作品に多く参加してもらった。アルファレコードの設立にあたり、すぐに契約を申し入れたんです。 ――アルファレコードの設立はどんなことを考えましたか?