荒井由実、細野晴臣からYMOまで...。プロデューサー/音楽家・村井邦彦が語る伝説のアルファレコードとシティポップ「魅力はアナログじゃないかなと思う」
村井 YMOはたくさん関連書籍がでているので、ここでは極めて個人的なことだけ書きました。細野(晴臣)くんと僕との間でどんな会話があったとか。表には出てないことばかりだから、読んでもらうと面白いんじゃないかな。 ――まさに時代の証言ともいうべき内容がたっぷり詰まったいますが、もともと村井さんが音楽業界に関わったのは、1966年に母校である慶應義塾大学のライトミュージックソサエティの先輩に勧められ、大学卒業後、自らレコード店を始めたのが最初だとか。 村井 会社に就職しようとはまったく考えなかった。大学のクラスメイトで会社勤めをしなかったのは僕だけだったみたい(笑)。 ――時代的にヒッピーカルチャーの影響はありましたか? 村井 少しはありましたが、学生時代から通ってた六本木・キャンティ(1960年代から文化人たちの社交場として知られる伝説的なイタリアンレストラン)に集う音楽家や画家などの先輩芸術家たちの自由な生き方に憧れました。 また、二代目中村吉右衛門という人間国宝になった歌舞伎役者の同級生がいたんですけれど、彼の厳しい修行を見ていて感銘を受けました。 ――自由でタフな環境の中にいたからこそ、会社勤めしようとは思わなかったと。余談ですけど、ヒッピーに少し影響を受けたとお話しされましたが、著書にロックの記述はほぼありませんでした。ヒッピーにもロックにもそこまで興味はなかった? それこそビートルズも含め......。 村井 興味がなかったわけじゃないけど、僕が本当に好きな音楽はずっとクラシックとジャズなんです。細野くんとは3歳違いで僕が年上なんだけど、僕はジャズの時代に育ち、細野くんはロックの時代に育ったわけです。しかし細野くんは古いジャズのこともよく知っているので感心しています。 ――その後プロの作曲家としてデビューし、「エメラルドの伝説」(テンプターズ/1968年)、「ある日突然」(トワ・エ・モア/1969年)などヒット曲を連発。1969年のパリ行きで、仏・バークレイ・レコードの楽曲の出版権を買い付けし、同年に音楽出版社・アルファミュージックを設立します。 村井 バークレイ社主のエディ・バークレイは、昔レコード屋や酒場のピアノ弾きをやっていた人で作曲家でもあったんです。彼を見て自分もレコード会社をやれるかなと思いました。ちょうど同じ頃ガミさん(作詞家・山上路夫)と、レコード会社からの依頼でなく、自主的に書きたい曲を書くために音楽出版社を設立することを相談していました。 ――当時まだ24歳ですよね。出版権を買うなんて若すぎません?