荒井由実、細野晴臣からYMOまで...。プロデューサー/音楽家・村井邦彦が語る伝説のアルファレコードとシティポップ「魅力はアナログじゃないかなと思う」
村井 それまでやっていたのは原盤制作で、やはりレコード会社を作らないと理想的なレコードは作れないと思いました。制作だけでなくマーケティングまで一貫してやることになったんです。 アルファミュージックの頃の日本のポピュラー音楽は、当時の僕から見て欧米の音楽を中途半端に模倣したもののように映っていたんです。オリジナリティがあって、世界的なレベルにある音楽を作り、それを海外でも売りたい。それが目標でした。 ――アルファは、マルチトラックのスタジオを日本でいち早く常設するなど常に音楽家の視点が一貫されていました。またしても余談ですが、ちょうど同時期の1975年、吉田拓郎さん、井上陽水さんらがフォーライフレコードを立ち上げます。あちらも音楽家主体のレコード会社でしたが、意識はされませんでしたか? 村井 まったく意識していませんでした。フォーライフの後藤由多加くん(当時、副社長)は当時、「コンサートは集会だ」と言っていましたからね。集会って学生運動のイメージです。そのスタンスからして僕らとはあまりに違っていた。僕たちはあくまで音楽そのものが中心でした。 そもそも自分たちの思うがままにやろうとだけ思っていたので、大手のレコード会社を含めて他社は意識していませんでした。 ――だからこそユニークな作品が生まれ続けた。アーティストのラインナップは村井さん自身が関わられていたんですか? 村井 大体はそうですね。アルファの骨格を作ったのは山上路夫さんと僕、そしてユーミンと細野くんだと思います。ユーミンが作った曲をハイ・ファイ・セットが歌ったり、細野くんがYMOを経て「YENレーベル」を作ったり。彼らを中心に広がっていった感じがします。 ――当時、アルファとの契約を希望したものの、そこまで至らなかったミュージシャンはたくさんいたと思いますが、どんな方がいらっしゃいましたか? 村井 えーと......、いやぁ、もう忘れちゃったよ(笑)。 ――ですよね(笑)。アルファは荒井由実さん、佐藤博さん、細野晴臣さん、吉田美奈子さん、山下達郎さんらの作品をリリースし、日本のシティポップの代表的なレーベルとしても海外でも知られています。現在の世界的なシティポップブームをどう受け止めてらっしゃいますか?