『逃げ上手の若君』北条時行を導いた諏訪頼重とは何者だったのか? 神官・武士として幕府に仕えた諏訪一族の実像
現在放送中のTVアニメ『逃げ上手の若君』。鎌倉幕府滅亡の地獄絵図から主人公・北条時行(声:結川あさき)を救い出したのが、謎多き神官・諏訪頼重(演:中村悠一)だった。史実でも時行を導いたのは信濃国の諏訪一族だった。今回は諏訪氏と幕府の繋がりを辿る。 ■鎌倉幕府を通じて得宗家に仕え続けた神官・武士の一族 炎上する鎌倉から脱出した北条時行を手引きしたのが信濃国の諏訪氏だ。行く先は一族の領地である信濃国・諏訪である。『逃げ上手の若君』の物語では諏訪盛重が担ったその役割を『太平記』では諏訪盛高が行ったことになっている。 諏訪氏は古くから諏訪大社の大祝(おおほうり・神職)を世襲してきた一族である。大祝は現人神として諏訪明神の依代とみなされていたが、その一方で鎌倉時代を通じて幕府の御家人、さらに北条得宗家と主従関係にある得宗被官でもあった。神官と武士、聖俗両方の属性を持っていたのである。 鎌倉幕府の草創期、源頼朝は自身が信頼する比企能員(ひきよしかず)を信濃国守護に据えて信濃国の掌握をはかった。頼朝の死後、鎌倉幕府2代将軍源頼家の代に比企氏が滅亡すると比企一族が握っていた信濃国の権益は北条一族に引き継がれる。山がちで平地が分断された信濃では国全体を一円にまとめる勢力が誕生しにくく、諏訪地域では大祝である諏訪氏が諏訪明神への信仰を核に周辺地域の武士を束ねていた。それを利用して諏訪の武士団を掌握したい鎌倉幕府と、幕府の威光を借りてさらに権威を高めたい諏訪氏との利益は一致し、諏訪氏は幕府との関係を深めていく。 承久3年(1221)年に承久の乱が勃発すると、時の大祝・諏訪盛重は諏訪明神の神託を受けて息子と共に幕府方への参陣を表明した。彼らに先導された諏訪神党は東山道から上洛して幕府の勝利に寄与する。諏訪氏、そして諏訪神党が幕府方についた背景には地域内における個々の武士団の利害関係も大きく影響していたはずだが、軍神の加護を持つ諏訪神党が味方についたことで幕府軍の士気が大きく上がったのは想像に難くない。この頃から諏訪氏と北条氏の密接な関係が見られるようになる。 嘉禎2年(1236)に北条泰時が将軍御所の北方に新しく屋敷を建てて引っ越しした際には、諏訪盛重もそれに従って泰時邸の南の角に家屋を構えたという。この頃には盛重は大祝の座を息子の信重に譲っており、出家して蓮仏と号している。蓮仏は特に泰時に心を寄せていたようで、泰時の死後に鎌倉の山内に仏堂を建立してその遺徳を偲んでいる。 その後も諏訪一族は代々北条得宗家の被官として活動し、北条貞時の十三回忌に参列したり、正中元年(1324)に後醍醐天皇による企てが発覚した際には急遽京都に赴いて容疑者の尋問にあたったりしている。鎌倉における諏訪氏の顔はすっかり武士のそれだ。その一方で諏訪社大祝の仕事もおろそかにはせず、諏訪氏は諏訪大社への奉仕を公事として鎌倉番役の免除や鷹狩の許可などさまざまな特権を得ており、聖なる存在としてのアイデンティティもしっかりと持ち続けていた。 しかしそんな諏訪一族も多くが元弘3年(1333)の幕府滅亡により北条一族と運命を共にした。 北条泰家が甥であり主君である高時の子・後の時行を諏訪氏に託したのは、山深く、北条氏の影響が強かった信濃ならば追っ手から逃げおおせられると考えたのはもちろんだろうが、長く北条に仕えてきた一族への深い信頼があったのは間違いない。 主君の遺命を受けて若君を匿った諏訪一族は、時行を新たな主、そして諏訪の子として育てていくのである。
遠藤明子