満州国からの引き揚げで孤児になりかけた「令嬢」が日本に3人しかいない「シェイクスピア」全戯曲の翻訳者になった理由
「これはダメだ。男に任せておけない」
400年以上も前にシェイクスピアが書いたセリフは英語の古文だから読むのも容易でなく「大学時代、大学院時代の和子は尻尾を巻いて逃げ出している」。にもかかわらず本書のタイトル通りに、とうとう捕まって全訳に挑んだ際、多くの先行訳があるのに「自分が新訳する意味は何か?」と自身に問いかけたのは当然かもしれない。しかし自分が訳すなら「ぜひこれだけはやりたい」と最初に考えたのが「女性の登場人物の言葉遣いを修正することだった」のは、まさに『クラウド9』を日本に紹介した翻訳家ならではだろう。本書は『ロミオとジュリエット』の有名なシーンにおける先行訳を例証して「これはダメだ、男に任せておけない」と和子に感じさせた点を明らかにしている。それはここ半世紀ほどの間に、一般社会における男女の関係が相当に変わったことをも読者に意識させる。 戯曲の翻訳家は登場人物1人1人のセリフを本人になりきって訳すから、必然的にニュートラルな「エガリタリアン=平等主義者」になるのだと松岡和子はいう。それもまた40年以上も前にジェンダーレスを主唱する英国戯曲の翻訳を成し遂げた女性ならではの発言だろう。 本書では彼女が自称「現場翻訳家」としてリハーサルにも立ち合い、ニュートラルに接した人気俳優とのやりとりを交えて、翻訳家の具体的な仕事ぶりが紹介されているのも面白い。そこに通底するのは大空の太陽が地面にくまなく降り注ぐようにして、家族に向けられたのと同じ女性の優しい眼差しだ。80歳を過ぎた今なお現役バリバリで活動する松岡和子という、実にしなやかで逞しい女性が歩んだ道程は、日本の未来を担う女性たちにとって素晴らしい指針ともなりそうである。
【もっと読む】『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』(草生亜紀子著、新潮社刊)試し読みはこちらから。 *** 松井今朝子(まつい・けさこ)……1953(昭和28)年、京都生れ。早稲田大学大学院修士課程を修了後、松竹株式会社に入社。歌舞伎の企画・制作にたずさわる。退社後は武智鉄二氏に師事し、歌舞伎の脚本・演出などを手がける。1997(平成9)年、『東洲しゃらくさし』で作家としてデビュー。同年、『仲蔵狂乱』で時代小説大賞を受賞。2007年、『吉原手引草』で直木賞を受賞する。『幕末あどれさん』『江戸の夢びらき』『愚者の階梯』『芙蓉の干城』『料理通異聞』『縁は異なもの~麹町常楽庵 月並の記』『歌舞伎の中の日本』『円朝の女』などの著書がある。 松井今朝子ホームページ (外部リンク) ※草生亜紀子著『逃げても、逃げてもシェイクスピア―翻訳家・松岡和子の仕事―』は新潮社より発売中 yom yom 2024年4月23日掲載
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