真のマセラティと呼べるのか?不遇な名車マセラティキャラミ
かのアレハンドロ・デ・トマソが世に送り出したマセラティの隠れた名車「キャラミ」。時代の運命に翻弄されたキャラミの真の姿とは… 【画像】デ・トマソによる立て直しで投入された不遇の車、マセラティ・キャラミ(写真9点) ーーーーー 多くの事業を手がける男であり、一匹狼であり夢想家であり、策略家であり陰謀家でもあった男、アレハンドロ・デ・トマソ。アルゼンチンからの移民であるアレハンドロ・デ・トマソは、かつてイタリアの自動車業界を吸収しようとした時期があった。少なくともフィアットが所有していないブランドに関しては確実にそうであった。彼は元々レーシングドライバーであり、自らの名を冠した自動車メーカーを立ち上げ、断続的に成功を収めたのち、マセラティが最低の状態にあったときに同社を買収し、立て直しを図った。そして新モデル「キャラミ」の投入でマセラティは復活するはずだったが、そうはいかなかった…。 キャラミの位置付けを理解するためには、まずマセラティ自体を理解する必要があるだろう。レースでの成功によりイタリアのブランドの中での高い地位を築いたにもかかわらず、破産の危機や訴訟が繰り返されてきたマセラティ。頻繁に買収・売却が行われることにより所有者は度々変わり、イタリアの政治的混乱や時には外部からの圧力によって、しばしば崩壊の危機にも瀕していた。これが多くの面でマセラティを魅力的であると同時に危なっかしい存在にしている要素の一つだろう。マセラティは、うまくいくときは非常にうまくいく。しかし、うまくいかないときは?マセラティは失敗さえも中途半端にすることはない。 キャラミは、そもそもベース車両がマセラティではなく、またマセラティの最も厳しい時期に登場したことから、失敗作の一つと言われても仕方ないだろう。しかしその背景を理解するためには、まず1967年の12月に遡る必要がある。1937年以来マセラティを支配してきたアドルフォ・オルシが、会社の60%の株式をシトロエンに売却した。1971年6月には、フランスの企業が残りの株式を取得し、シトロエンSMやマセラティ・カムシンといった印象的な車が生まれた。しかし、1974年末には、マセラティが解体される未来が見えてきたのだった…。 1973年のオイルショックの後、当然燃費の悪い高級車への需要は急激に減少した。マセラティの工場では労働者の不満が募るも、シトロエンの監視下で労働者数は倍増し、ストライキが頻発した。そして1974年末、プジョーがシトロエンを買収。買収後の最初のビジネスの一つとして、赤字を抱えたイタリア子会社であるマセラティの買い手を見つけることが求められたが、買い手は見つからず、1975年春にはこのモデナの子会社は清算人に引き渡された。 結局その後紆余曲折あり、1975年8月にGEPIという国有企業がアレハンドロ・デ・トマソと提携することによりマセラティは経営再建に乗り出す。彼はマセラティの11.25%の株式を取得し、会社全体を引き継ぐことが確約された。これにより、彼はわずか64ポンドでマセラティを取得したのだ。ただし、条件があった。デ・トマソは、労働者数を半減する必要があった。この施策は従業員のブランドに対する忠誠心を向上させるようなものではなかったが、デ・トマソのこの強硬なアプローチも理解できる。当時、マセラティは年間200台しか生産していなかったのだから…。 さらに買収時には、その生産台数は二桁にまで落ち込んでいた。そのため、デ・トマソはフラッグシップモデルが必要だと考えた。何か新しいもので、経営が順調であることを示すもの。ここで、彼はゼロから新しい何かを創造するのではなく、1972年に遡りデ・トマソ・ロンシャンに「遺伝子操作」を施しキャラミを作り上げた。