戦国時代の臨場感感じる城館 「菅谷館」(前編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ
畠山重忠の館跡との伝承を持つ菅谷館は、都幾川と鎌倉街道上道が通る水陸交通の要所に築かれました。都幾川の断崖を利用した天然の要害です。いまに残る遺構は戦国時代のもので、立地的な重要性から、菅谷館付近ではたびたび戦いが繰り広げられました。 長享2(1488)年、菅谷館の近くで「須賀谷原合戦」と呼ばれる戦いが起きました。これにより、この地域が戦国時代に緊迫した状況下にあったことがわかり、菅谷館は関東動乱の歴史をひもとく重要な歴史舞台のひとつといえます。この須賀谷原合戦というのは、どのような歴史の流れの中で起きたのでしょうか。 古河公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立し、関東を二分する争乱となった享徳の乱の最中に、関東管領山内上杉氏の重臣長尾景春が「長尾景春の乱」と呼ばれるクーデターを起こしました。これにより、関東ではさらなる混乱が巻き起こります。長尾景春の乱は、文明9(1477)年から、足かけ4年にわたり続き、関東の諸勢力は入り乱れて戦いました。 景春に味方する勢力が各地で蜂起しましたが、上杉方の鎮圧軍を率いた太田道灌によって制圧され、景春が最後に籠もった熊倉城も道灌によって攻め落とされ、長尾景春の乱は終結しました。 この後、文明14(1483)年11月に室町幕府が「都鄙和睦(とひわぼく)」を決定。都鄙和睦とは幕府(都)と古河公方成氏(鄙)の和睦を意味し、ここに約30年に渡り繰り広げられた争乱が終わったのです。 しかし、またしても関東に激震が走る大事件が起こります。こともあろうに、華々しい活躍を見せた道灌が主人扇谷上杉定正に暗殺されたのです。暗殺動機は不明なものの、定正は道灌の政治的権力の増大を危険視しており、道灌側にも主人に対する不満があったようで、戦乱が深まるにつれ、両者の間の溝も深くなっていったのかもしれません。 この道灌暗殺という大事件によって、再び関東は戦火に包まれました。道灌の嫡子太田資康や、道灌を慕っていた親道灌派がこぞって扇谷上杉氏から離反し、山内上杉氏を頼りました。これにより、今度は上杉氏の中で争乱が起きます。関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の戦い「長享の乱」が幕を開け、比企地方はこの乱の中心的な舞台になりました。 このような中で、長享2(1488)年に嵐山町から小川町にかけて大きな合戦が起きたのです。山内上杉方となった道灌の嫡子資康は平沢寺(嵐山町)に陣を張り、扇谷上杉勢と対(たい)峙(じ)。6月には須賀谷原合戦が起きました。合戦地は菅谷館のほど近くと考えられていて、この戦いでの死者は700人と伝わり、かなり大規模な戦いであったことが分かります。