大河後も悪逆非道なイメージの<平清盛>。しかし一代で政権を掌握した彼を単なる悪人と切り捨てるのは…歴史研究家・河合敦が解説!
◆清盛の心配り たとえば『十訓抄(じっきんしょう)』には、次のような逸話が載る。 「清盛は相手のつまらぬ冗談でも笑ってやり、部下が失敗をしても決して怒らない。小姓たちより早く目が覚めたときなどは、彼らを起こさないよう音を立てずに部屋をそっと出、そのまま寝かせてやった。どんなに身分の低い者も、大勢の前では丁重に扱った」 このような気遣いのできる人間だからこそ、家来たちも清盛に心服したのだろう。 心配りは臣下に対してだけではない。清盛は誰とでも円滑な関係を心がけ、敵をつくることを避けた。 一時、後白河と息子・二条天皇の対立が深刻になったことがあったが、このときも「ヨクヨクツツシミテ、イミジクハカラヒテ、アナタコナタシケルニコソ」という態度をとったと、慈円(じえん)の『愚管抄』に記されている。 つまり「アナタ」と「コナタ」の双方に配慮し、巧みに行動したという意味である。
◆合理的精神の持ち主 これより前、後白河の近臣である藤原信頼(のぶより)が、実力者の藤原通憲(のりみち)(信西<しんぜい>)を殺し、後白河と二条を幽閉して政権を握ったことがある。世にいう平治の乱だ。 このおり清盛は洛外にいたが、事態を知って都へ引き返した。強大な軍事力をもつ清盛が難なく洛中に入れたのは、信頼に敵とみなされていなかったからである。 清盛は、信西の子を婿に迎える約束をする一方、信頼とも密接な交わりを結んでいたのだ。 しかし反信頼派が台頭してくると、清盛は彼らと結んで一気に信頼派を打倒した。 それができたのは、特定の派閥に属さず、誰とでも組めるニュートラルな態勢、諸勢力と円滑な友好関係を結んでいた証拠であり、巧みな処世術といえるだろう。 清盛はまた、祈祷で雨を降らせ昇進した僧について「病人は時がくれば治る。旱天(かんてん)も続けば、自然に雨が降るのだ」とその法力を真っ向から否定。 港の修築のため人柱を立てようとした公卿の意見も退けており、迷信を信じぬ合理的精神の持ち主だったことがわかる。 教科書のいうように単に「強圧的」で「思うままに政治をおこなう」人物だったわけではないのである。 ※本稿は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
河合敦