「産む」選択、「産まない」選択 小説『燕は戻ってこない』から考える
「リプロダクティブ・ライツ」なんて、誰も教えてくれなかった
リキを見ながら、私は自分の「産まない選択」について考えた。私はものごころついた時から子どもを欲しいと思ったことはなかった。成長すると周囲の女性たちは結婚や出産を望んでいることに気づき、孤独感を抱いた。当時の婚約者も、後の結婚相手ふたりも「結婚=出産」と当然のようにとらえていた。パートナーの意志を前に、私は産まない選択をすることへの罪悪感にも苛まれた。リプロダクティブ・ライツなんて、誰も教えてくれなかった。 29歳のリキも、自分の身体に関することは自分で選べ、尊重されるべきだなどと認識してはいない。たとえ彼女は、それらが分かっていたとしても、恐らく貧困から逃れるために代理母になる道を選んだだろう。女性が自分の身体を尊重すること、産む、産まないを選ぶこと、選べること……、それは経済的に余裕のある人にとっては納得できることなのかもしれない。しかし貧しくて叔母の葬式に行くことすらできないリキは、そんなことを考える余裕もない。代理母になることによる、多額の謝礼を前に「自分の身体の自由」はあっけなく崩れ落ちる。 貧困にあえぐ女性は、自分の身体を尊重する自由まで奪われるのだろうか。リプロダクティブ・ライツは、一部の恵まれた人しか享受できないのだろうか。新たな疑問が私の心に芽生えた。 エージェントを通してリキを代理母にしたのは、基と悠子という夫婦である。彼らは裕福な家庭を築いているが、原作小説では悠子の実家が決して豊かなわけではないと明かしている。登場人物ひとりひとりの豊かさや貧しさを描写しているのも本作の特徴だろう。そもそも代理出産のためのお金を払うのはこの夫婦ではない。経済的に豊かな家庭で育ち、息子の基にバレエに没頭できる環境を与えることができた、基の母である千味子なのだ。彼女は不妊治療を繰り返しながらも子どもを産めない悠子にいら立ち、「私と基の血を継いだ子にバレエの道を歩ませたいのに」と責める。 一方、悠子は自らの意志で本当に「産みたい」と考えているのだろうか。夫を手放したくないから不妊治療を重ねている可能性もあると感じた。それは子どもを持てばキャリアに影響すると言われ、悠子が焦燥感を抱く場面からも察しがつく。 悠子は、日本では認められていない代理出産に踏み切ろうとする夫と義母に戸惑い、貧困女性である代理母のリキに同情に似た感情を寄せる。自分の内面を見据えて、本当に出産したいのか、自分自身の身体を尊重しているのか自分自身に問おうとしない点においては、悠子もリキに似ている。 貧しさと対峙しているのはリキだけではない。女性用風俗でセラピストをしているダイキや、リキの同僚で夜は性風俗で身を立て、得たお金を彼氏に貢いでいたリキの友人テルも、明るく振る舞ってはいるが東京で困窮している。 対照的に画家として活動する、悠子の友人りりこは、実家が病院を経営していて非常に裕福だ。画業で生計を立てる必要もなく、アセクシャルとして結婚も出産もせず人生を貫けるパワーや自信は、彼女が貧しければ得られなかっただろう。りりこは豊かであるがゆえに、産まない人生を選べて、リプロダクティブ・ライツの概念をなぞるような生き方ができるのだ。 ドラマは原作以上に、代理母になるまでのリキの身体的な痛みを赤裸々に描く。人工授精でカテーテルを入れられた激痛で、診療後もうなだれるリキを見て、出産も不妊治療の経験もない私は目を見張った。つわりで寝込み、いざ出産すると、消えない跡が身体に残る。出産後は高熱にさいなまれ、帝王切開によってできた傷の痛みにも襲われる。この苦しみを、エージェントもリキを代理母にした基と悠子という夫婦も、事前にはリキに伝えていなかった。場合によっては、出産によって命を失う危険もあったはずなのに。 「こんなこと、聞いていない!」 リキの悲鳴が耳を貫くようだ。リキは一千万円で代理出産を引き受けたが、それはリキ自身の身体と命の値段でもある。終盤、リキは双子の出産を経て大きな決断をする。貧困から逃れられたわけではないと知りつつも、リキは小さな希望に光を灯す。