”2050年までにキリスト再臨”を信じる人々がイスラエルを支持する理由とは?
「千年王国」と都市伝説
またディスペンセーショナリズムという終末思想が、それが唱えられた19世紀以来、分裂した右派の結束を強めるために用いられてきたことを考えると、この血生臭い終末論は、個人主義の時代にあって人々を動員する数少ない物語として、いかに批判されても消滅しないのではないかという懸念もある。 ディスペンセーショナリズムに関して非常にバランスの取れた歴史的研究であるダニエル・G・ハメルのThe Rise and Fall of Dispensationalism: How the Evangelical Battle over the End Times Shaped a Nation(Eerdmans 2023)によると、ディスペンセーショナリズムは福音派においても神学校などで教えられる教義としては既に衰退しており、現在米国のキリスト教ナショナリストが吹聴しているのは何の学術的背景もないポップ・ディスペンセーショナリズム、あるいはサブカル的なディスペンセーショナリズムなのだそうだ。こうしたサブカル的な思想が、陰謀論と同様に、政治にまで影響を与えるほどに影響を持つのは、結局キリスト教という制度も含め、様々な権威や組織といったものがことごとく機能しなくなっていることの証左だと言えるだろう。 最終戦争などのおどろおどろしいビジョンに満ち、「イスラエルの民」の救済とも結びついたディスペンセーショナリズムは元々『ヨハネの黙示録』に由来する。
黙示録的幻想はなぜ人を惹きつけるのか
ローマ帝国末期に迫害されるキリスト教徒たちへのメッセージとして書かれた『ヨハネの黙示録』は、2000年以上、良く言えば苦難の中にある人たちを励ます、悪く言えばルサンチマン(怨恨)によって人々を動員するテキストとして用いられてきた。 19世紀のイギリスの文学者D・H・ロレンスは、炭鉱夫の父に連れられて行った保守的なメソディスト教会や福音派の教会で、『ヨハネの黙示録』が福音書以上に、人々に慰めと興奮を与えていることに幼少期から嫌悪感を抱いていたと言う。彼の考察によれば、『ヨハネの黙示録』は、イエスが説くある種の個人主義に耐えられない人たちが必要とする、人間の集団的側面に応えるものだった。ここでロレンスが「集団的側面」と言うのは、人間が持つ他人を支配したいという権力欲である。つまりイエスの説く愛があまりにも純粋に個人的で内面的だったために、かえって権力への歪な欲望を生み、その受け皿となったのが『ヨハネの黙示録』だったと言うのだ。 ロレンスが『黙示録論』(福田恆存訳、ちくま文庫、2004年)で示したこの問題提起は、個人主義が人々の基本的な生き方として普遍化しつつある2020年代に、黙示録的なナラティブを信じたがる集団が、米国のトランプ政権の背後で権力を握っている現状を理解する上で、基本的な枠組みを与えてくれる。 現在のクリスチャン・シオニストとは、近代的な個人主義に基づく米国の民主党的なアジェンダに耐えられず、黙示録的な共同幻想に陥っている集団なのだ。「イスラエルの民」の救済、シオニズムは、彼らの共同幻想を駆動する物語の一つに過ぎず、結局ユダヤ人は彼ら自身の救済のための駒に過ぎない。欧米の白人たち主導の共同幻想に巻き込まれて、無辜のパレスチナの人々が殺されている現状は、間違いなくあってはならない事態である。私たち日本人は、このキリスト教を背景とした欧米人の文化戦争に加勢するよりは、部外者だからこそできることを考えていくべきだろう。同時に、現代の個人主義に耐えられず共同幻想に陥ったクリスチャン・シオニストのような人々について、彼らを異常者扱いするのではなく、近代化された社会が必然的に直面することになる共通の問題として認識するべきではないだろうか。
柳澤 田実(関西学院大学神学部准教授)