「我々は人間じゃないんだ」 修理できなければ“捨てる”兵器の一部 零戦搭乗員が見た最前線【戦後80年】
3年9か月に及ぶ太平洋戦争で、日本では約240万人の兵士が亡くなりました。その多くは10~20代の若者。2016年に99歳で亡くなった原田要さんは、当時、最新鋭の戦闘機「零戦」に乗り、真珠湾やミッドウェーで戦いました。撃ち落とした敵パイロットの表情を忘れることができなかった生涯。「戦場に勝ち負けはない」と伝え続けました。 【映像】真珠湾・ミッドウェー零戦搭乗員が見た戦場 「戦場に勝ち負けはないんだ」
◆戦争と結びつかない“ひいおじいちゃん”
2010年9月、東京の靖国神社には、猛暑のなか、杖をつきながら高齢の男性たちが集まってきていました。彼らは、旧日本海軍のパイロットだった人たち。太平洋戦争当時は零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦に乗って戦う、二十歳前後の若者でした。 この日は、「零戦(ぜろせん)の会」の会合のため、全国から元パイロットが集まっていました。 原田要さん(当時94歳)は、ひ孫2人を連れて参加。“戦争”と“ひいおじいちゃん”が結びつくかを尋ねると、「全然」と話すひ孫たち。 原田さんのひ孫・今野智景さん(取材時13歳) 「戦争で撃ち落としたとか言ってても、“えっ、そうなの?”みたいな。そんな雰囲気がない」
◆真珠湾攻撃「いよいよ男の働き場所がきたなと」
原田さんは戦争でどのような体験をしたのか──。 戦後50年近く、原田さんは戦争での体験を語りませんでした。当時の記憶がよみがえり、夢でうなされる事も。しかし、若い世代に伝えるため、自らの体験を語るようになったといいます。 1933年、原田さんは16歳のときに海軍に入隊。19歳の時、その華々しさにひかれ、海軍のパイロットコースに志願し、トップの成績で戦闘機パイロットになりました。 そして25歳の時、当時の最新鋭機・零戦に乗って真珠湾攻撃に参加したのです。 元零戦パイロット・原田要さん(取材時94歳) 「いずれは、アメリカと戦わなければいけないと覚悟はしていました。いよいよ男の働き場所がきたなと、何となく武者震いしておりました」
◆もだえて落ちていった“敵のパイロット”の姿
1941年12月8日、日本の空母から飛び立った攻撃部隊が、ハワイの真珠湾を空襲しました。しかしこの時、原田さんの任務は空母の護衛。攻撃部隊には加われませんでした。 原田要さん(取材時94歳) 「ムカムカしてしょうがなくて、攻撃に行った人たちが帰ってきて、みんなが鼻高々で戦果の発表をしてる。私ははらわたが煮えくり返るようで、ギューっと耐えて聞いてました」 その後、原田さんの乗った空母「蒼龍」はスリランカに向かい、イギリス軍を攻撃しました。原田さんは、空中戦で戦闘機を撃ち落としましたが、墜落していく相手パイロットの顔を、忘れることができないといいます。 ──その空中戦のとき、原田さんは何機くらい(撃ち落とした)? 原田要さん(取材時94歳) 「私の撃墜数は、自分の小隊の共同撃墜を入れて5機」 ──そのうち何機くらい相手のパイロットが見えた? 「私は3機。嫌な顔して落ちて行ったのが3機。3人見ちゃったからね。相手のゆがんだ苦しそうな顔、恨めしそうな顔。もだえて落ちていく…。今でも思い出してね」 「だから私は戦争の最前線には勝ち負けはないんだなと(思う)。落ちた人は負けたように見えるし、落とした人は勝ったように見えるけど、同じなんだと。この嫌な思いを一生背負っていかなければならない」