「我々は人間じゃないんだ」 修理できなければ“捨てる”兵器の一部 零戦搭乗員が見た最前線【戦後80年】
◆子どもたちには「経験させたくない」
戦後は家族を養うため必死に働く日々でしたが、地元・長野の人たちに頼まれたことがきっかけで、戦後20年がたった1965年、幼稚園の経営を始めました。 「園長先生-!」と慕われる原田さん。「大きくなったら野球選手になりたいです」という園児の声に、目を細めていました。この場所にいる時は、戦争の記憶が薄れるといいます。 原田要さん(取材時94歳) 「子どもたちには、我々が味わった嫌なことは経験させたくないなと」 「自分の体、生命を大事にするということを、何とか子どもたちに伝えたい。自分の体が大事であれば、他人の体も、お友だちのことも大事なんだよというふうに」 (※2010年12月8日放送を再編集)
【取材した日本テレビ・松嶋洋明ディレクター 戦後80年に思うこと】
このVTRのため原田要さんにお話をうかがったのはいまから15年前、2010年のことでした。その時点で、真珠湾攻撃に参加された搭乗員のなかでお元気な方は原田さんのほかに数人しかいらっしゃらなかったと記憶しています。 太平洋戦争の緒戦、無敵といわれた零戦を駆っていわゆる勝ち戦も経験されている原田さんでしたが、敵機を撃墜し搭乗員の命を奪ったことで、戦後長らく罪の意識にさいなまれ苦しんだとお話されていたことが強く印象に残っています。 原田さん(※取材時94歳) 「今になって飛行機で追われる夢を見るんです。戦争中は追う方ばかりだったのに。追われる方の心理状態を察してしまうからでしょうか。逃げても逃げてもくっついてくる。苦しくなって声をあげると、そばに寝ていた家内が起こしてくれて、あぁ夢で良かったと。いまだに時々そういう夢を見ます」 その原田さんが「我々が味わった嫌なことは絶対に経験させたくない」として経営する幼稚園で園児に教えていたことがあります。 原田さん(※取材時94歳) 「私は子どもたちに自分の体を大事にしなさい、そうすれば人さんの体も虫や植物の命も大事だとわかる。自分の命と同じくらい大切にして守ってあげないさいと言っているんです」 園児たちと遊んでいると、悪い記憶が薄れて非常にありがたいとほほえんでいた原田さん。2016年5月、99歳でお亡くなりになりましたが、園児たちの多くが今は成人し社会で活躍しています。原田さんはそのことをなによりも喜んでいらっしゃるのではないでしょうか。