「我々は人間じゃないんだ」 修理できなければ“捨てる”兵器の一部 零戦搭乗員が見た最前線【戦後80年】
◆家族と1日だけの再会 「みすぼらしい」けど「きれいだな」
原田さんは、部隊再編のため日本に戻ると、わずか1日でしたが、妻・精さんたち、家族と一緒に過ごすことができたといいます。10か月ぶりの再会でした。 原田要さん(取材時94歳) 「(長野から)家内を呼んで上野の駅で会いました。田んぼから子どもを背負って、田んぼに出てるまんまで来た。本当にみすぼらしいんだ」 「子どもは背中でギャーギャー泣いてるし。かわいそうだな…、しかし、きれいだなと思いました」
◆敵の戦闘機が急速に接近
1942年10月、原田さんが乗った空母「飛鷹」はガダルカナル島の攻撃に向かいました。そこで敵の戦闘機と差し違えることになったのです。 アメリカ軍の港へ向かっていた原田さんたちの零戦隊。目標にさしかかったその時、上空の雲の中から、アメリカ軍の戦闘機が襲いかかってきた。 原田要さん(取材時94歳) 「12~13機、サーっと降りてきた。見てる間に両翼の2機ずつが、火だるまになった」 ゼロ戦隊がアメリカ軍戦闘機の後を追うと、アメリカ軍機の1機が後ろに回り込もうとする──。原田さんがその1機を「おれがやるから」と、下から撃ち上げると、敵の機も原田さんを狙って降りてきた。 原田さんのゼロ戦と敵の戦闘機は、真正面で撃ち合いながら急速に接近。すると原田さんは次の瞬間、左腕に衝撃を感じた。機関銃の破片とみられる金属が腕を貫通したのだった。 原田要さん(取材時94歳) 「どーんとね、ハンマーで殴られたみたいに跳ね上がっちゃった。見たら(腕に)卵くらいの穴が開いていた。やられたな、と」
◆死を覚悟したとき、“頭をよぎった”のは
一度はあきらめかけたが、なんとか地上に不時着することができたといいます。その傷は、68年がたった取材時も残っていました。 ──もうダメだと思った時、頭をよぎることはありましたか? 「やっぱり自分の家庭、子ども。『天皇陛下万歳、大日本帝国万歳』と言っている人はいるかもしれないけど、その人は死ぬ人じゃない」 「死ぬときには独身の人は『おっかさん』。それから妻帯者は、“女房が困るだろう”、“子どもがどうやって大きくなるかな”と、そういうことが頭をよぎる」 九死に一生を得た原田さんは、治療のため日本に戻され、その後はパイロットの教官として勤務。終戦を迎えました。