異国の店主と土地の味。/チリ料理店『Casa de Eduardo』
各地のローカルな風を届けてくれる東京近郊の外国料理店の店主を、 料理家の土井光さんと巡るコラム。
土井光(以下、土井) ここは都内で唯一のチリ料理店ということですが、お店はいつオープンされたのですか? とても美味しいエンパナーダ に、辛くないサルサソースが日本人の味覚にも合う優しい味。シンプルな味付けが、南米の温かい雰囲気を思い出させます。 エドゥアルド・フェラダ(以下、エド) 2012年です。最初は、赤坂のサンドイッチ屋さんを間借りしていたのですが、1年ほど経ってから新中野にお店を構えました。
土井 来日されたのも、その頃ですか? エド 来日したのは1983年。もう40年以上も前! 当時、大学を卒業してチリで働いていたのですが、ある時新聞を見ていたら、日本の電子通信事業会社の求人を見つけて。日本のことは、アニメの『ウルトラマン』や、ドラマの『おしん』くらいしか知らなかった。でも、27歳だった僕は冒険心と挑戦心が強かったので、すぐに応募して試験を受けました。高い倍率をくぐり抜けて採用が決まり、翻訳スタッフとして東京で働けることになったんです。
土井 一つの決断が、40年以上も異国に暮らし続ける未来を作るなんて、人生はどう進んでいくかわからないものですね。 エド ほんとですね。周りの友人は、私の決断を冗談だと思っていましたし(笑)。でも、日本は街並みが綺麗で、人も優しくて、すっかり気に入りました。電子通信事業会社は1年ほどで辞めてしまったのですが、日本にはいたかったので、別の仕事を見つけて生計を立てました。
土井 具体的にどんなお仕事をされていたんですか? エド JICAに勤めて、海外に派遣される協力隊にスペイン語を教えながら、副業で翻訳もしていました。勤務先は長野県だったのですが、チリにいた彼女を日本に呼んで、結婚をして子供も生まれて、プライベートも充実していましたね。その後、だんだんと翻訳の仕事が忙しくなったので、2年ほどでJICAは退職し、翻訳会社を自分で設立して東京に戻りました。
土井 エドさんは、長いこと翻訳業を生業にされていたのですね。 エド でもね、インターネットの普及によって2000年以降はどんどん仕事が少なくなっていき、しばらく不安な時期が続きました。この先どうしようと思っていた時、レストランを開くきっかけとなる東日本大震災が起きたんです。チリテレビ局のリポーターを案内するために、震災から2日後に被災地に行ったのですが、その後もボランティアとして南三陸に定期的に足を運んで。その時、炊き出しで作っていたアサードなどのチリ料理を喜んでもらえたことで、飲食の道を決めました。震災は2011年3月11日、お店オープンはほぼ一年後の2012年3月12日。