SNSで謝罪に変化が!? 日米仏の謝罪事情考察。
セレブの謝罪がトレンド化?
SNSでもテレビでも、セレブが謝罪している姿を見ることが増えた。昨今の世相を読む。 2023年秋、ドリュー・バリモアが悔恨の表情を浮かべ、目に涙を浮かべながら平謝りした。これは映画のワンシーン? いや現実だ。いまや人気トーク番組の司会者となったこの女優はなぜ公開謝罪を行わなければならなかったのだろう。それはハリウッドの脚本家ストライキの最中に、自分の番組を再開すると発表し、みんなの連帯を乱したからだ。その発言はすぐにSNSで炎上し、彼女は「ストライキ破り」と認定された。『E.T.』で一躍有名になった元子役スターは固く団結したコミュニティーの裏切り者となったのだ。 数日後、彼女は謝罪を発表し、自分の行動を正当化するものは何もないと非を認めた。 アシュトン・カッチャーとミラ・クニスも、受難の道3.0を体験した。複数のレイプ事件で起訴された友人ダニー・マスターソン(懲役30年の有罪判決を受けた)を支持する手紙を裁判所宛に書いたところ、SNSで非難が殺到したのだ。ふたりは「手紙がレイプ被害者に与えたであろう苦痛」を述べる反省動画を公開しなければならなかった。 これは特異なケースではない。テレビ司会者のジミー・ファロンやエレン・デジェネレスも、程度の差こそあれ、現場から「気分屋」とか「ハラスメント」と糾弾され、謝罪に追いこまれた。俳優のウィル・スミスは、アカデミー賞授賞式でクリス・ロックに平手打ちを食らわせ、後にSNSや動画でしおらしく謝った。
無責任な態度は嫌われる。
カメラの前で公開謝罪することでセレブが悔い改めた(はずの)姿を見せることはある意味、おきまりのパターンになりつつあるようだ。毎週のように、些細なことで謝罪会見をするセレブを見かける。 『Corps sous influence(原題訳:影響を受ける身体)』(L'Harmattan刊)の著者、マリーヌ・クルゼによれば、「こうした発言はひとつの文化的な変化を反映していると言える。MeToo運動などで大衆の見る目は変わった。人種差別、性差別、同性愛者嫌悪的な行為は以前、ある程度見過ごされていたが、いまでは許されないものとなった」 なんらかの失態を世論が指摘して攻撃し、鉄槌を下す速度もアップした。MCBGコンセイユ・エージェンシーの会長であり、コミュニケーション・コンサルタント、パリ政治学院の教授でもあるフィリップ・モロー・シュヴロエも、「セレブはもう無責任でいることができない」と言う。セレブの振る舞いに不快感を感じると、大衆はすぐに謝罪を求め、SNSは民衆の法廷と化す。 こうなるとセレブ側の選択肢は3つだ。弁明するか、謝罪するか、放っておくか。多くは2番目を選択する。この「悔い改める」姿勢は何を意味するのだろうか? 哲学者のクリスチャン・ゴダンは「1990年代以降、"悔い改める"とは、過ちを犯したことを表明し、改悛の情を公で発表し、許しを請うことを指すようになった。それは、さかのぼれば宗教的、政治的、法的な起源を持つ。カトリック教会で悔い改めるとは、罪を犯して神を怒らせたことに対する心からの激しい悲しみであり、二度と罪を犯さないという願いと結びついている」と言う。 さらにゴダンは、悔い改める行為は「神への愛と、これ以上罪を犯さないという意思に基づく」"痛悔"と、「神を怒らせたことへの後悔を表明しながらも、罰や地獄への恐怖からの」"不完全痛悔"に分類されることも指摘した。(1)