SNSで謝罪に変化が!? 日米仏の謝罪事情考察。
セレブの場合
今日、悔い改めるために祈ることはなくなったが、それでもユダヤ・キリスト教のイデオロギーの中で、痛悔の概念はしっかりと根づいている。謝罪することは罪の赦しを得ることを意味する。罪悪感を軽くし、謙虚さと共感を示すための謝罪なのだ。 公に償いをすれば、赦しへの道が開かれる。「ただ、口先だけの後悔と、心の底からの謝罪には隔たりがある」と哲学者のクリスチャン・ゴダンが言うとおり、どうやって本物と偽物を見分けるのか? 心から悪いと思っている人と、罰への恐れで謝罪を口にする人をどう区別するのか? 「今日、地獄に落ちることを恐れる人はいない。その代わり、大衆の支持や市場を失うことを恐れている」とゴダンは指摘する。スペクタクルの社会において、謝罪は危機的状況に対処するための一般的な演出方法となった。問題を解消し、犯したミスを帳消しにするために使われる、まさにプロパガンダやコミュニケーションの武器となったのだ。
泣いて詫びる。
日本で謝罪は名誉に関わる問題で、トップが非を認めるという形を取る。技術的欠陥を理由に自動車をリコールしたトヨタ自動車の豊田章男会長から、福島原子力発電所を運営する東電の社長に至るまで、大企業の経営者は皆、謝罪の経験がある。その場合、ダークスーツを着て神妙な顔でおじぎをする。頭は直角まで下げたほうがいい。ひとつの部署にせよ、企業、政府あるいは国全体にせよ、責任はトップにある。 なお、公に謝罪する場合、心から反省していることを示すために泣くことをためらわない人もいる。その反省が本当であろうとなかろうと。だがオーバーすぎると逆効果だ。涙の告白の中でもとりわけすごかったのは2014年、日本のある議員による謝罪会見だ。気持ちを抑制した懺悔が伝統の日本で、この議員は嗚咽し、叫び、涙を流しながら横領したことを謝罪した。取材陣とカメラの前で3時間続いた会見ショーは、感動を通り越して驚きと失笑しかもたらさなかった。動画は世界中を駆け巡り、50万人以上のインターネットユーザーが視聴した。このヒステリックな悔恨はパロディとしてアニメ化されたが、議員が詐欺罪で3年の実刑判決を受けるのを防ぐことはできなかった。