SNSで謝罪に変化が!? 日米仏の謝罪事情考察。
フランスの場合
失敗もある。ミラ・クニスとアシュトン・カッチャー夫妻は最近の謝罪会見で、見た目には気をつけたが(夫妻はTシャツ姿で化粧もせず、自宅の壁の前らしき場所に登場した)、中身が良くなかった。 「レイプ事件で起訴された友人を支援する手紙を書いたことは謝罪せず、この手紙が被害者を傷つけたかもしれないことを謝罪した。つまり、この動画は感情に訴えず、純粋に過ちを認めたわけでもない。ややドライな説明に終始し、弁護士がしゃべった方がよかっただろう。アドバイザーが良くなかったのではないかと思う」とフィリップ・モロー・シュヴロレは辛口の採点をした。 また、独断で行動してしまう人物にも注意が必要だ! フランスの大物政治家、フランソワ・フィヨンは、妻のペネロペと2人の子供に関する架空の雇用疑惑で「カナール・アンシェネ」週刊紙のすっぱ抜きに遭った。だがフランソワ・フィヨンはすぐに反論せず、曖昧な立場を取りつづけた。 10日間で疑惑は膨れあがり、結果としてフィヨンは反論と謝罪を織り交ぜたアクロバティックなテレビ出演を余儀なくされた。謝罪はあまりにも遅く、しかも問題の本質に触れていなかった。彼は妻や子どもたちと仕事をしたことは認めたが、彼らの仕事が架空のものであった可能性にはふれなかった。その結果、彼の言葉は完全に信用を失い、謝罪も役に立たなかった。このお粗末な危機管理は、いまや一部の専門スクールでダメな対応例として教えられるほどだ。 このケースはまた、フランスで公の場での謝罪がどう捉えられているかを明らかにしている。「フランス人は謝罪しないし、おそらくセレブが公に謝罪することも期待されていない」とフィリップ・モロー・シュヴローは言う。「その代わり、否認する文化がある。この国ではよく、権威をひけらかす形で反撃することを好む」。防御の文化とでも言おうか。それは政教分離の結果、宗教というものが国民にあまり浸透していないからかもしれない。「フランスでは許す文化がない。しかもアメリカほど "セカンド・チャンス "のストーリーを語ることにも慣れていない。許されないのなら、謝る必要もないではないかとなる」 しかしSNSの爆発的な普及によってフランス人の行動も徐々に変容し、アメリカのように公の謝罪を行う人が増えてきた。その謝罪が真摯なものであるかどうかは別だし、アメリカのショービジネス界が得意とする、涙ながらの懺悔にはまだまだ及ばないが。何であれ、許しを得るためには、真摯さが必要だ(もしくは真摯に見えなければならない)。多少なりとも真摯さを感じさせるための手伝いを専門家はしてくれるが、なにもかもやってくれるわけではない。とどのつまり、これは2つの感情の出合いなのだ。そして誰も結果を予測することはできない。どこを目指せばいいのだろう。それは多分、魂の癒しだ。 (1) 記事「Excuses et Attritions publiques : une nouvelle mode inquisitoriale(タイトル訳:言い訳と公の不完全痛悔:新たな異端糾問しい詮索好きなファッション)」、クリスチャン・ゴダン執筆、2011年4月13日発行「シテ」誌(No.45)掲載(Puf刊)
text : Caroline Hamelle (madame.lefigaro.fr)