「法を守る気ゼロ」…江戸時代の長崎が幕府直轄地であるにもかかわらず、幕府お手上げの「犯罪都市」になった「特殊な法意識」
江戸時代の長崎は、国際貿易都市であると同時に、じつは犯罪都市でもあった。 当時の長崎は、なぜ、法の支配が及ばず、幕府が頭を抱えるほどの犯罪都市になってしまったのか。 【もっと読む】江戸時代に「3人の男を手玉にとった16歳の少女」の行く末 江戸時代の長崎奉行所の裁きの記録「犯科帳」から江戸社会の実情を読み解く『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)を上梓した長崎県立大学教授・松尾晋一さんに、江戸時代の長崎が犯罪の温床となった特殊事情を解説していただいた。
長崎における「密貿易の頻発」と「質屋」の関係
江戸時代の長崎は、幕府が唐人・オランダ人との交易を許した特殊な国際貿易都市だった。貿易が順調に拡大している時はよいが、貿易規模が縮小し利益が減少すると貿易業務に従事する町人たちをはじめ貧窮に苦しむ者たちが増加した。 こうした者のなかには罪を犯す者もいた。この地を支配していた長崎奉行は罪を許さず罰を与えるものの、それを顧みず知恵を絞り様々な手法で罪を犯す者たちは後を絶たなかった。長崎奉行所の判決記録「犯科帳」からこれらの者たちの罪状などを知ることができるが、なかでも抜荷(密貿易)の事件が散見される。 抜荷は、得た物を自らの物にしたり、自ら消費したりするわけではなく、物を売却することで得られる利益を求めて罪を犯すケースが圧倒的に多かった。これには売却先が必要で、足がつきにくいところがよりよかった。容易に売却先が見つかる環境があれば、躊躇なく罪を犯す者たちも現れたであろう。 江戸時代の長崎に質屋はあったが、持ち込んだ物の出所を確認せず、持ち込んだ者の印を帳面にもらわず代金を貸す慣習があったという。そのため盗賊なども質屋を利用するほどだった。 抜荷や盗難を試みようと考える者たちにとってこうした環境は、捕まることを恐れる不安を和らげたに違いないし、そもそも罪を犯すハードルを下げたことは容易に想像できよう。質屋で出所を確認し、帳面に利用者から印をもらうよう法ができたのが天保13(1842)年のことだから、これまでの間、出所不明の品が相当質屋に持ち込まれたことであろう。