「法を守る気ゼロ」…江戸時代の長崎が幕府直轄地であるにもかかわらず、幕府お手上げの「犯罪都市」になった「特殊な法意識」
犯罪を誘発する都市環境
ただ、質屋を使う小規模な商品取引だけではなく、18世紀前半まではかなりの規模での闇取引が長崎で行われていたようである。 六代将軍徳川家宣の侍講として幕政に参画したことでも知られる新井白石が制定に関わった海舶互市新例(1715年制定)。正徳新例とも言われ、オランダ船・唐船の貿易額を定めて金・銀・銅の海外流出を制限し(唐船:銀6000貫 銅輸出300斤。オランダ船:金50,000両(銀3000貫) 銅輸出 150斤)、抜荷を取り締まる諸規定などが示された。これを幕府が長崎へ伝える際に派遣した上使・仙谷久尚に宛てた老中下知状から当時の幕府の抜荷に関する認識が知れる。 これによると、松浦家領の平戸(長崎県)沖で抜荷して買い取った品は、長崎に隣接する大村家領に船を寄せて、そこから長崎へと戻っていたようである。 平戸沖は、九州北西部に位置し、現在一部西海国立公園の指定範囲になっていて、九十九島や五島列島で知られているように島が多く、複雑な形をした入江が続くリアス式海岸でも知られている。船が隠れられる場が多くあって、取り締まりもしにくいこの地域は抜荷を行うのに打ってつけの環境だった。 巨大消費地の大坂・京の位置を考えると、平戸沖より南の長崎ではなく、北東、つまり博多・小倉方面へ抜荷で得た品を送った方が良いように考えるがそうした判断をしなかったことになる。長崎では平戸沖での抜荷物の(闇)取引が容易にできたのだろう。正規の貿易品に紛れ込ませられたのかもしれない。 幕府も、長崎近辺の天領、野母浦(長崎半島の先端)、茂木浦(橘湾に面した港)で抜荷物の出入りがあると認識はしていた。長崎の出入り口であった日見口(東)・茂木口(南)・時津口(北)に番所が設けられていたにも拘わらず、しっかりした番人が監視していたわけでもなく、抜荷物の出入りを調べることがなかった実状も幕府は把握していた。 だからこそ、幕府は海舶互市新例で唐船とオランダ船による貿易の船数と取引額を決めるとともに、遠見番所の設置など抜荷対策に着手したのだった。 とは言え、幕府が抜荷を根絶できなかったのは「犯科帳」をみれば一目瞭然である。長崎は幕府の直轄地でありながらも、そもそも貿易品流通の管理が不十分で、犯罪を誘発する都市環境だったといえよう。