「法を守る気ゼロ」…江戸時代の長崎が幕府直轄地であるにもかかわらず、幕府お手上げの「犯罪都市」になった「特殊な法意識」
犯罪予備軍の「宿なし」たち
こうした環境だったからか、為政者にとって厄介な存在がいたからか、犯罪が多かったのは事実である。厄介な存在とは、「宿なし」と言われる者たち。彼らのなかには渡世を送ることもままならず罪を犯してしまう者も多かった。 正徳新例が出された時の長崎奉行・大岡清相は「宿なし」の問題をなんとしても解決したい(「片付け」たい)と考えていた。大岡が江戸へ送った「伺い」によると、長崎生まれの宿なしは、長崎では無縁者であり、唐人と接触を試みる不届き者も多く、つねに抜荷にたずさわる懸念がある。とは言え仮に長崎から追放しても、西国、中国、大坂、堺などへ行ってまた抜荷の手引きなどをしかねない。従って、これまでのような追放は悪手である、とみていた。 そこで大岡の提案は、他領から長崎に来た「宿なし」に対しては、本国に送り返し、領内から出さないように命じるよう該当地の支配者に伝える。いっぽう長崎生まれの「宿なし」は、罪を犯し、その罪科が死罪に至らず流罪に相当する者を五島または壱岐に流罪に処するという案だった。また、同じ五島でも、罪の軽重によって送る先を区別すべきだとの意見を持っていた。 これに対する老中の判断は、全員五島でよいという判断だった。また、九州、四国、中国地方で船乗りだった者が罪を犯した場合で、死罪には当たらず、かといって本国へ帰すことも許さない場合にも流罪にする。ただし、五島は唐船の航路上に当たることから、流罪地でも彼らが漁船など盗んで唐船に接触を図り、違法行為をしかねない、従ってそういう者たちは壱岐へ流せと命じた。町からはじき出すにも容易ではない「宿なし」は、犯罪予備軍として為政者にとって警戒を怠れない存在だった。
幕府の手に負えなかった「長崎独特の法意識」
犯罪を誘発する環境があり、厄介者の存在があると、そこに住む長崎の町人も法に対する意識が他の都市とは少々異なっていたようだ。長崎奉行も長崎の支配に苦心した。松平貴強は、その一人。寛政11年(1799)11月、市中・郷中の者(長崎の者たち)へ知らせるようにと「公事出入心得方書付(くじでいりこころえかたかきつけ)」(『長崎町乙名手控(ながさきまちおとなてびかえ)』)をまとめていた。 この冒頭で、「すべての願い出の諸案件は証拠をもって、約定の過ちがないか糺す。その理非を究明することは勿論のことで、証拠がない信を取り上げないことは公儀御定法で決まっている。江戸表の三奉行(勘定奉行・町奉行・寺社奉行)をはじめ、どこの奉行所でもそのとおりであると認識されている。しかしながら長崎の仕癖で、たしかな証文などがあってもそれは脇において当事者が互いに口上で申し立てる意味にこだわり、だんだん自分勝手に自分に都合のよいことのみを言ってくるので、枝葉のように話が拡がる。(事の真偽を)糺す際限もなく期限を移し、年月が経ったことになってしまう」と記している。 これから松平貴強が、長崎が「公儀御定法」(公事方御定書)を軽んじている土地柄であると認識していたことがわかる。幕府の法であっても侮る長崎の町人の意識は、幕府の手にも負えないほどであり、幕府による法治の実現に大きく立ちはだかった。 近世社会の生きにくさに抗う人々の生きざまがわかる都市・長崎とは、幕府の統治能力の限界を知れる町なのである。 *
松尾 晋一(長崎県立大学教授)