「東海道五十三次」完成400周年―“箱根発” 歌川広重の55の名画と旅する東海道
天野 久樹(ニッポンドットコム)
2024年は、東海道五十三次で最後に設置された庄野宿(三重県鈴鹿市)の完成から400年目。節目の年を記念し、東海道10番目の宿場である箱根の岡田美術館では、『「東海道五十三次」で旅気分 ―富士に琳派に若冲も―』を12月8日まで開催中だ。歌川広重(1797~1858)の浮世絵『東海道五十三次』(保永堂版)全55枚を順に並べて展示し、美術館に居ながら旅している気分に浸れる。同館学芸員の稲墻朋子さんに鑑賞のポイントを聞いた。
キーワードは「詩情」と「郷愁」
歌川広重は1797年、江戸の定火消(幕府の消防組織)の同心(下級役人)、安藤源右衛門の子・徳太郎(のち重右衛門に改名)として生まれた。1809年に両親を相次いで亡くすと、13歳で家督を継ぐ。幼少より絵を好み、浮世絵師・歌川豊広に入門。豊広より「広」の字を拝領し、「広重」と号した。1823年に家督を身内に譲ると、32年には後見役・番代からも退き、58年に62歳で亡くなるまで画業に専念した。 1833年に刊行された『東海道五十三次』は、53の宿場に、スタートの江戸・日本橋とゴールの京都・三条大橋を加えた55図から成る風景版画。広重はその後も20種を超える東海道シリーズを制作したが、とりわけ版元の保永堂(竹内孫八)が中心となって出版した初作は爆発的な人気を集め、保永堂版と呼ばれて高い評価を得ている。
当時、広重はほとんど無名の浮世絵師、保永堂も弱小の新規版元だった。そんな駆け出しコンビの成功の背景にあったものは何か。 「まずは、『東海道名所図会』など各地の絵入り名所案内が18世紀末頃より出版され、旅への憧れが高まりつつあったこと、19世紀初めに刊行が始まった十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、東海道への関心が深まっていたという時代背景があります」 「そうした庶民の心の中に、広重は東海道を旅する人々や、その風景を、季節や天候、時間の移ろいとともに描くという斬新な手法で、それまでの名所絵にはなかった詩情あふれる情景をつくり上げました」 「たとえば、広重の作品にはたびたび雨が登場しますが、その雨も夕立、大雨、しとしと雨など、意識して描き分けています。自然を生き生きと写しながら、印象的な気象や人物を描き加える。その情景にはどこか郷愁を覚え、心にしみるものがあります」 と稲墻さんは語る。