「東海道五十三次」完成400周年―“箱根発” 歌川広重の55の名画と旅する東海道
ここに注目(1) 箱根の山の険しさを“パッチワーク”で表現
『東海道五十三次』シリーズの中でもとりわけ手の込んだ美しい一枚として評価が高いのが「箱根 湖水図」だ。 「箱根の山は天下の嶮(けん=険しいところ)」と童謡・唱歌「箱根八里」の歌詞にもあるように、箱根峠は東海道最大の難所。旅人たちを苦しめたその山を、なんと広重は緑、青、黄、茶などの色をパッチワークのように組み合わせて表現した。対照的に、雪化粧した富士山は輪郭だけで、遠景にひっそりとたたずんでいる。 「細く急こう配の坂道を関所に向かって進む大名行列は、笠だけで表しています。だんだんと視界が開け、やがて芦ノ湖や富士山が見えてくる、そんな時間の流れが伝わってくるようです」と稲墻さん。 広重は版画で有名だが、晩年は天童藩(現在の山形県)織田家からの依頼による肉筆画も数多く手がけた。本展では、「天童広重」と呼ばれる双幅も展示している。武家好みともいえる色を抑えた格調高い画風が特徴。左幅には芦ノ湖越しに見た富士山が描かれており、右幅の場所は湯本から程近い、箱根七湯の一つ、塔ノ沢と思われる。 広重は実際に京都まで旅をしたのか? 『東海道五十三次』は実景描写か否か―研究家たちの間でよく論じられるテーマだ。「天保3年(1832年)に幕府の内命を得て東海道の旅をし、八朔御馬(はっさくおうま=幕府管轄の牧場から選ばれた特別な駿馬)献上の行事に参加した」との弟子の証言記録があるというが、真偽は定かではない。 「『東海道名所図会』を種本として、静岡以西の絵はそこから題材を採っているものが増えていきます。一方、箱根までの絵は、街道風景にリアリティが感じられることから、実際に歩いたのではという意見もあります。ただ記録が少なく、なかなか断言できないのが実情です」と稲墻さんは語る。
ここに注目(2) 北斎への対抗心? 原宿の「朝之富士」
『東海道五十三次』全55図のうち、富士山が描かれている作品はいくつあるか? 答えは7枚。川崎宿、平塚宿、箱根宿、原宿、吉原宿、由井宿、舞坂宿。 広重は『東海道五十三次』シリーズを通して、四季や時間帯、天気をバランスよく配置し、単調にならないようにしているが、富士山が登場する画は大半が冬の日中だ。 吉原宿では、京都に向かって左側に見える珍しい「左富士」を、由井宿では絶景ポイントとして有名な薩埵(さった)峠からの眺めを描いている。 スケール感に圧倒されるのが原宿(現在の静岡県沼津市)の「朝之富士」だ。それ以外の作品では、旅人を遠くから見守る脇役なのに対し、ここでは完全に主役。朝焼けに照らされた姿が中央にドンと置かれ、頂上が画面の枠からはみ出ている。 鶴の鳴き声に、旅路を急ぐ女性が振り返り、笠を差し上げて富士山を仰ぎ見る―去りがたい心情が見事に描かれている。 「構図に工夫を凝らし、朝日を受けた富士山の雄大さが強調されています」と稲墻さんは指摘する。 富士山を描いた浮世絵師といえば葛飾北斎だが、親子以上に歳が離れた巨匠に対し、広重はかなりの対抗心を燃やしていたようだ。 北斎の死後、広重は富士山を描いた『富士見百図』を刊行。その序文の中で次のように記している。 「北斎は図案の面白さを重視し、富士山はその取り合わせに過ぎないものも多い。本書は北斎の同書とは異なり、私が目の当たりに眺望したものをそのままに写し置いた草稿を清書したものである」 「自分は『写実』を追求する――風景画なら私だという矜持(きょうじ)が伝わってきます」と稲墻さん。 広重の風景画には、随所に“遊び心”も効いている。荷を担ぐ男性の着物の柄は、広重の「ヒロ」の字を組み合わせたもの。こうした“コマーシャル”は、「庄野宿」「鳴海宿」などでもさりげなく添えられている。