米ソの雪融けから一転...大統領選で、民主党に勝利をもたらした「共和党のしくじり」
緩和から危機へ
ケネディ暗殺を受けて副大統領から昇格したのがL・B・ジョンソンです。 大統領選挙という"洗礼"を受けずに大統領となった彼でしたから、自らの正統性を示すべく、「ケネディの遺志を継ぐ者」とアピールしてケネディのやり残した「公民権法」を成立させ、さらに「偉大なる社会」を惹句に社会福祉の充実・貧困の克服に尽力します。そのおかげもあって次の大統領選でも勝利することができました(※8)。 しかし、外交面ではケネディの融和政策に反して、ヴェトナム戦争に本格的軍事介入を図る「北爆」を開始したため米ソ関係は悪化していきます。 このように、ケネディ・ジョンソン2代にわたる民主党政権は、緊張が緩和を生み、そうして生まれた緩和が緊張を生む"瀬戸際外交"がつづくことになりました。 [注釈] (※8)ケネディ暗殺に対する"同情票"という側面も大きかったようです。
緊張緩和へ
しかし、これ以上米ソ対立が進めば、その先に待ち受けるのは確実に「核戦争」です。 「冷戦」の一環として、両陣営による核開発競争が始まっていましたが、40年代に米ソ、50年代にイギリス、60年代には仏中とぞくぞく核保有国が増えていき、68年までにすべての国連常任理事国(米・英・仏・ソ・中)が原水爆を保有することになりました。 これ以上核保有国が増えれば、世界中のどこかで生まれた火種がただちに「核戦争」に発展しかねず、制御不能となるでしょう。 そうした危機意識から、1968年「核拡散防止条約」が締結され、これを契機に時代は新しい段階に入ります。それが「緊張緩和」です。 じつはこのころ、アメリカ合衆国はヴェトナム戦争への介入で戦費が財政を逼迫していましたし、ソ連・東欧諸国も農業政策の失敗により食糧自給が不可能となってきており、お互いに緊張緩和を望んでいたという経済的背景もありました。 そして、この"1968年"はアメリカ合衆国にとって大統領選の年でもあります。ジョンソン大統領は憲法規定上(※9)、この年の大統領選にも出馬できましたし、彼自身も意欲満々だったのですが、失政につぐ失政で国民に人気なくついに出馬を諦め、政権は共和党に移ることになります。 さらにいえば、F・ルーズヴェルトが慣例を破った(4期在職)ことから、戦後は同一人物が3期以上務めることが憲法で禁止されていましたが、のみならず、同一政党が3期以上政権を担うことへの嫌悪感も強くなったため、そうした背景も民主党の敗因となっています。 以降、ひとりの人物が「2期8年」務める場合、2人で「2期8年」務める場合があれど、3期目にはほぼかならず政権政党が交代するようになります(※10)。 [注釈] (※9)「合衆国憲法修正22条」では、大統領が任期途中で職を継いだ場合(前大統領の暗殺・病死・失脚など)、残りの任期が2年未満の場合、これを継いだ大統領は3期目も立候補できる(合計で10年まで)という規定がありました。 (※10)その唯一の例外がG・H・W・ブッシュ(父)です。 ------------------------------------------ 【歴史視点③】戦後は、同一政党が「1期で陥落」することもなければ、「3期以上つづく」こともなくなり、ほとんど「2期8年」ごとに政権政党の交代が起こるようになる。 ------------------------------------------