米ソの雪融けから一転...大統領選で、民主党に勝利をもたらした「共和党のしくじり」
危機から緩和へ
こうして新たに官邸の主となったのは、民主党のケネディでした。彼が大統領の椅子に座ったときすでに「雪融け」は崩れていましたから、これを受けて彼の好むと好まざるとにかかわらず"危機の時代"を歩むことになります。 そもそも「雪融け」などといえば聞こえはいいですが、それは「米ソが心から相手を信頼し合い、心を通じ合わせた」という類のものではなく、実態は「冷戦が行き詰まったから、とりあえず"形だけ"満面の笑みで握手を交わしておいて、その隙に相手を出し抜く手を模索していただけ」なので、こんなものが長続きするわけもありません。 実際、「雪融け」の只中にあっても、米ソの利害がぶつかるベルリンやキューバなどではその水面下で熾烈な駆け引きが行われていました。 ケネディは大統領就任早々、ウィーンでフルシチョフと話し合いの場(ウィーン会談)を持って関係改善を模索しましたが、「ベルリン問題」がこじれて決裂したのもそうした背景があったためです。 ウィーン会談ののち、ただちにフルシチョフは「ベルリンの壁」を建設して欧州に緊張を走らせ、さらに秘密裡のうちにキューバに核ミサイル基地の建設を実行します。これが「U2」によって露見したことで「キューバ危機」が勃発、「核戦争」寸前までいったことは有名です。 このときは、フルシチョフが一歩退いたことで核戦争はぎりぎりのところで回避されましたが、この件で米ソは「我々が武力衝突すれば人類文明そのものが存亡の機に直結する」ことを実感します。 そのためケネディ大統領は、「部分的核実験禁止条約(※6)」や「莫華ホットラインの開設(※7)」、さらには「ヴェトナム撤退表明」など米ソの関係改善に努めます。 こうしてふたたび歴史は"緩和(デタント)"へと揺り戻しが起こったかと期待されましたが、その直後、ケネディは志半ばで暗殺され、その翌年にはフルシチョフが失脚し、こうした努力も水泡に帰してしまうことになります。 [注釈] (※6)正式名は「大気圏内、宇宙空間および水中核実験禁止条約」です。つまり、地下実験は認められていたということです。 (※7)ダイヤルを回すことなく受話器を上げるだけで相手につながる直通回線のこと。