大谷翔平フィーバーが孕む危険性。目にしない日はない「大谷翔平」という社会現象から、“私たち”を掘り下げる1冊【書評】
「パンとサーカス」は「B級グルメとスポーツ」に
著者は、古代ローマ時代から揶揄されてきた「パンとサーカス」にもなぞらえる。つまり、国民は「パン=食糧」と「サーカス=娯楽」さえ与えておけば、満足して政治に無関心になるという批判的警句だ。「パンとサーカス」とは今の日本では「B級グルメとスポーツ」だろうと。さらに「政府とメディアは共犯関係」と指摘し、大谷フィーバーで大勢が思考停止になることに危機感を募らせる。 大谷を見ていれば「日本はすごい」と錯覚できるし、たとえ目先の生活が苦しくても、給料が上がらなくても、将来が不安でも、大谷の活躍を見ていれば忘れられる。それが束の間だとしても、世界を舞台に闘う大谷の姿に感動し「自分も頑張ろう」と思える。本当は社会に対して怒るべきことがあっても声を押し殺し、大谷の活躍に励まされながら苦しい日々を淡々と生きる……それこそが為政者たちが望む国民の姿だ。
大谷は「日本の誇り」の前後を考える
もちろん大谷から元気をもらい、その活躍に心躍ることは素晴らしいことだ。著者も含め、多くの人が享受している喜びだ。それに大谷本人には何の非もない。ただ、今の大谷フィーバーが孕んでいるリスクや鑑みるべき背景は、大谷が規格外であるだけ広くて深い。同書にあるように、メジャーリーグに挑戦したアジア人選手たち(日本人選手も含む)の歴史一つを辿っても、差別問題だけでなく劇的な変化や差異に驚かされる。 世界的スターになった大谷を追うことは、世界や歴史とかかわることに繋がるのだ。日本のニュースは「世界が大谷をどう評価したか?」は詳しく伝えるが、そのニュースに湧く私たち日本人がどう見られているかを伝えることはあまりない。 「日本の誇り」として大谷と自身を重ねるだけでなく、そう思う自身は世界でどう捉えられているのか。大谷フィーバーを考えることは、日本や自身のアイデンティティについて振り返ることであり、アメリカや近隣のアジア諸国に関して重大な気づきを得ることでもあるのだと思う。 文=松山ようこ