「倭寇」という言葉、じつは戦時中の「日本の教科書」から消えていた…そこから見えてくること
「倭寇」という言葉から見えること
K-POPが世界を席巻する一方で、「嫌韓」といわれる現象が渦を巻く。中国の富裕層の日本への移住が増えている一方で、中国政府の外交姿勢は強硬化している……。東アジアの情勢は、これまで以上に混沌としてきているように見えます。 【写真】こんな感じだったのか…「倭寇」を描いた絵画 東アジアの現状をじっくりと考えるためには、その歴史について知るのが近道です。 そのさいに役に立つのが、『倭寇』という一冊。本書の著者、田中健夫氏(1923~2009)は、中世日本の対外関係の研究者で東大教授も務めた第一人者です。 14~16世紀に東アジア世界をさわがせた「倭寇」のあり方には、このエリアの各国の政治体制、文化の相互影響などが深く関わっています。いわば、倭寇の歴史からは東アジアの歴史が見えてくるのです。 たとえば本書では、「倭寇」という言葉が「成語」として(つまり「倭」と「寇」バラバラではなく、ひとまとまりの言葉として)成立した経緯、そして、それが一時、日本の教科書から消えていた事情を描いていますが、それは非常に興味深いものです。 同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 *** ところで、「倭寇」という言葉が成語として固定したのはいつであったろうか。わたくしは、これを14世紀の中葉以後と推定する。 『高麗史』は、李氏の朝鮮の時代の文宗元年(1451)に金宗瑞・鄭麟趾らが王命を奉じて撰した高麗王朝に関する官選歴史書で、139巻からなり、数少ない高麗の史料のなかで最も貴重な存在とされているが、倭寇に関しても豊富な記事を提供してくれる歴史書の一つである。 この『高麗史』の高宗十年五月の条にある「倭寇金州」という文章が、普通倭寇の文字の初見とされている。高宗十年は、日本では貞応二年(1223)で、蒙古の来襲はこれより約半世紀後のことであった。 ところで、「倭寇金州」は、当然「倭、金州に寇す」と読むべきもので、「倭寇」という熟字ではなく、したがって、この時期に「倭寇」という固定した観念が存在していたと読みとることはできない。 倭寇という言葉が成語になったのは、高麗忠烈王四年(1278)のころであろうというのが中村栄孝氏の意見であるが、わたくしは高麗忠定王二年(1350)以後としたい。すなわち、『高麗史』『高麗史節要』等の朝鮮史料は、1350年に固城・竹林・巨済などの地方に倭寇のあったことを書き、「倭寇の侵、これに始まる」とか「倭寇の興る、これに始まる」とかしている。 ここにみられる「倭寇」の語の使い方は、明らかに成語としての使用法であり、この時期には「倭寇」という観念がすでに明らかに固まっていて、朝鮮人に意識されていたことを物語っている。 なお『高麗史』の記事は、日本や日本人のことを書く場合に、すべて「倭」としているわけではない。ときには「日本」という呼び方も使っている。「倭」はやはり、いくぶん侮蔑の意味がこめられていたのであろう。 「倭寇」の語は、憎しみあるいは侮蔑の感情をこめて外国人が称した外国語が、外国文献から原語のままとりいれられて、充分な検討を経ないうちに、日本史上の歴史的名辞となった言葉であることを理解しておく必要がある。 かつて、第二次大戦中「倭寇」の文字が嫌われて日本史の教科書から抹殺されたことがある。また「倭寇」のかわりに史料には出てこない「和寇」の字をあてている人もいる。 しかし、このような新造語の使用は、倭寇の実態をかえってボカしてしまうおそれがある。「和寇」の文字を最初に用いたのは、頼山陽あたりらしいが、「倭」をきらって「和」にしたことは、かえって「倭寇」の本質をみないことになろう。本書では、史料にあるままの「倭寇」の文字を用い、それが時代により場所により変化していったあとをたどって記述してゆきたい。 *** まずは「倭寇」という言葉を厳密に見つめることで、東アジアの歴史が見えてくる。そんなことを、本書の記述は教えてくれます。 さらに【つづき】「中国は、いつ「日本という呼び名」を使うようになったのか? 「倭」という呼び方が使われなくなった経緯」でも、倭寇の歴史についてくわしく紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部